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仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和62年(1987年)4月10日)は、日本の映画監督である。脚本家としての山中貞雄とのタッグで知られる。 == 来歴 == 両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで〔『INTERVIEW 映画の青春』(京都府/京都文化博物館企画・編集・発行、キネマ旬報社発売、1998年)の「仁科熊彦インタビュー」の項(p.28-49)を参照。同項執筆は奥田久司。〕、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる〔。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち〔、中学3年のとき会津に戻る〔。 1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。当時、同社の技術部には三浦光雄、三木茂、杉山公平、片岡清、青島順一郎がいた〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「仁科熊彦」の項(p.297-298)を参照。同項執筆は映画監督の加藤泰。〕。1919年(大正8年)からは同撮影所は国際活映に経営が代わる。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で国活の経営が傾き、小西商会に入る〔(小西六とは違う〔)。 1924年(大正13年)、28歳のとき、現在の兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所監督部に入社〔。 同年8月、東亜とマキノ等持院撮影所が合併するが、この直前にマキノへ入社。仁科本人によると「マキノ省三氏が乗り込んでこられて、いまでもわけがわかりませんが、いきなり監督やれとおっしゃる」ということで、映画監督となる。 同年11月7日公開の悪麗之助オリジナル脚本による『或る兄弟と城主』を初監督〔。 1925年(大正14年)5月、東亜とマキノが分裂。東亜に残留して高木新平の主演物や団徳麿の映画を撮る。 1926年(大正15年)3月には脚本家山上伊太郎のデビュー作『帰って来た英雄 前篇・後篇』を演出する。同年、沼田蔵六原作『悲恋心中ヶ丘』の映画化への松竹・日活・帝キネ各社競作に東亜から参戦、16巻の前後篇の長尺で7月1日に公開された。 1928年(昭和3年)、日活大将軍撮影所の脇役俳優隼秀人を、東亜キネマは主役待遇で引き抜き、移籍第1作『慶安妖飛録』の演出を任される。同作は同年9月9日に公開された。 1929年(昭和4年)6月30日、33歳のときに女優岡島艶子と結婚〔、7月6日封切りの映画『君恋し』以降、同年後半は監督業を行っていない。1930年(昭和5年)1月4日封切の正月映画『維新鉄仮面 第一篇』で復帰した。また、同年3月30日封切りの14巻もののオールスター大作『天狗騒動記』の演出チームに参加する。 同年、助監督社堂沙汰夫こと山中貞雄の書いたシナリオを採用、『右門捕物帖 六番手柄』を撮る。 1931年(昭和6年)、嵐寛寿郎の独立と「嵐寛寿郎プロダクション」の設立にあたって山中貞雄とともに移籍、「右門シリーズ」を引き続き撮る。 1987年(昭和62年)4月10日、京都市右京区竜安寺の自宅で死去。91歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁科熊彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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