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仁科熊彦 : ミニ英和和英辞書
仁科熊彦[にしな くまひこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にん, じん]
 (n) kernel
: [か]
  1. (n,n-suf) department 2. section 
: [くま]
 【名詞】 1. bear (animal) 

仁科熊彦 : ウィキペディア日本語版
仁科熊彦[にしな くまひこ]
仁科 熊彦(にしな くまひこ、明治29年(1896年1月1日 - 昭和62年(1987年4月10日)は、日本の映画監督である。脚本家としての山中貞雄とのタッグで知られる。
== 来歴 ==
両親とも会津若松(現福島県会津若松市)生まれで〔『INTERVIEW 映画の青春』(京都府/京都文化博物館企画・編集・発行、キネマ旬報社発売、1998年)の「仁科熊彦インタビュー」の項(p.28-49)を参照。同項執筆は奥田久司。〕、父は会津藩藩士の家系。1896年(明治29年)1月1日、軍人だった父の赴任地、熊本県熊本市新屋敷町に生まれる〔。福岡県門司(現北九州市)、神奈川県小田原町(現小田原市)で育ち〔、中学3年のとき会津に戻る〔。 
1916年(大正5年)、福島県立会津中学校(旧制、現在の福島県立会津高等学校)を卒業、上京して早稲田大学を志すも、予備校に通うのみで学業を放棄、天然色活動写真巣鴨撮影所の現像場に職を得、技術部に入社、撮影助手となる。当時、同社の技術部には三浦光雄三木茂杉山公平片岡清青島順一郎がいた〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「仁科熊彦」の項(p.297-298)を参照。同項執筆は映画監督の加藤泰。〕。1919年(大正8年)からは同撮影所は国際活映に経営が代わる。
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災で国活の経営が傾き、小西商会に入る〔(小西六とは違う〔)。
1924年(大正13年)、28歳のとき、現在の兵庫県西宮市にあった東亜キネマ甲陽撮影所監督部に入社〔。
同年8月、東亜とマキノ等持院撮影所が合併するが、この直前にマキノへ入社。仁科本人によると「マキノ省三氏が乗り込んでこられて、いまでもわけがわかりませんが、いきなり監督やれとおっしゃる」ということで、映画監督となる。
同年11月7日公開の悪麗之助オリジナル脚本による『或る兄弟と城主』を初監督〔。
1925年(大正14年)5月、東亜とマキノが分裂。東亜に残留して高木新平の主演物や団徳麿の映画を撮る。
1926年(大正15年)3月には脚本家山上伊太郎のデビュー作『帰って来た英雄 前篇・後篇』を演出する。同年、沼田蔵六原作『悲恋心中ヶ丘』の映画化への松竹・日活・帝キネ各社競作に東亜から参戦、16巻の前後篇の長尺で7月1日に公開された。
1928年(昭和3年)、日活大将軍撮影所の脇役俳優隼秀人を、東亜キネマは主役待遇で引き抜き、移籍第1作『慶安妖飛録』の演出を任される。同作は同年9月9日に公開された。
1929年(昭和4年)6月30日、33歳のときに女優岡島艶子と結婚〔、7月6日封切りの映画『君恋し』以降、同年後半は監督業を行っていない。1930年(昭和5年)1月4日封切の正月映画『維新鉄仮面 第一篇』で復帰した。また、同年3月30日封切りの14巻もののオールスター大作『天狗騒動記』の演出チームに参加する。
同年、助監督社堂沙汰夫こと山中貞雄の書いたシナリオを採用、『右門捕物帖 六番手柄』を撮る。
1931年(昭和6年)、嵐寛寿郎の独立と「嵐寛寿郎プロダクション」の設立にあたって山中貞雄とともに移籍、「右門シリーズ」を引き続き撮る。
1987年(昭和62年)4月10日京都市右京区竜安寺の自宅で死去。91歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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