|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 今 : [こん] 【名詞】 1. this 2. now ・ 井 : [い] 【名詞】 1. well ・ 和 : [わ] 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace ・ 也 : [なり] (n) a sum of money
今井 和也(いまい かずや、1931年3月9日 - )は、日本の広告宣伝プロデューサー。1960年代、株式会社レナウン宣伝部在職時に、テレビCMを担当。「イエイエ」をはじめとするテレビCMで一時代を築き、日本における「CM元年」をプロデュースした人物。東京都出身、東京大学文学部美学美術史学科卒業。 == 略歴 == === 東京自由が丘から、満州ハルビンへ === 東京都自由が丘で、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を卒業した父・秀雄と、女子美術専門学校を卒業した母・テイの長男として生まれた。清水組(現在の清水建設)に建築設計士として勤務していた父がハルビン工業大学の教授になったことを契機に、1937年、小学校1年の時に父母、姉と4人の一家でハルビンに移住。ハルビンで妹が生まれた。1945年、ソ連との国境近くの王栄廟開拓団で勤労奉仕をしていた中学三年の時、ソ連軍の満州侵攻に遭遇し、終戦後はソ連占領下のハルビンで衣料品の立ち売りや花札を作って自ら売りながら、一家で飢えをしのいだ。1946年にようやく日本に引揚げ、自由が丘の家に帰った。 引揚げ後は、旧制の都立大森中学に編入。同窓には、小田島雄志(シェークスピア学者)、東威(リューマチ研究の権威)、筒井昭輔(画家)たちがいた。1948年、父が結核で死去。自身も結核に感染して大量に喀血。広島県西条市の結核療養所に入所し、3年間の闘病生活を終えて再び東京へ戻った。1952年、東京大学文科2類に入学。フランス語を学ぶ文2・6Dというクラスに入る。このクラスには詩人入沢康夫、藤野昌子、「無限大」編集長前野昭吉たちがいた。教養学部時代は美術サークルに入部し、東郷青児のアトリエで油絵を学ぶなどしていたが、50号2点を出品した二科展にあえなく落選、画家への道は断念した。その後、文学部美学美術史学科に進学し、同じゼミに所属していた樋口恵子(現・東京家政大学名誉教授、当時の全日本学生新聞連盟の副委員長)の勧誘で、東大学生新聞会に入会。映画評論や論説を執筆する一方ではイラストも手がけ、大江健三郎のデビュー作で東大五月祭賞入賞作品であった「奇妙な仕事」の挿絵を描いたりしていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「今井和也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|