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仙臺カントリー倶楽部 : ミニ英和和英辞書
仙臺カントリー倶楽部[せんと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せんと]
 (n) cent
カントリー : [かんとりー]
 (n) country, (n) country
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
倶楽部 : [くらぶ]
 【名詞】 1. club 2. fraternity 3. sorority 4. clubhouse 
: [たのし, らく]
  1. (adj-na,n,n-suf) comfort 2. ease 

仙臺カントリー倶楽部 ( リダイレクト:仙塩ゴルフ倶楽部 ) : ウィキペディア日本語版
仙塩ゴルフ倶楽部[せんえんごるふくらぶ]

仙塩ゴルフ倶楽部(せんえんゴルフくらぶ)は、戦後復興期仙台市および塩竈市〔「仙塩ゴルフ倶楽部」創立時に現・仙台都市圏(当時は「仙塩」と呼ばれた)においてだったのは仙台と塩竈の2都市のみ。〕の郊外に設立されたカントリークラブであり、運営会社を介して「浦霞コース」と呼ばれるゴルフ場を有している。オーナーは塩竈市に所在する老舗造り酒屋佐浦吟醸」()の第13代目当主の佐浦弘一。
「浦霞コース」はかつて「上ノ原ゴルフ場」と呼ばれた、塩竈市にある東北地方最古のゴルフ場である。塩釜丘陵(松島丘陵)上にあり、日本三景松島を望む。
== 沿革 ==

神奈川県横浜市貿易商をしていた佐浦菊次郎(佐浦家第11代目当主)は、商売上、外国人との交友があり、ゴルフをたしなんでいた。1929年昭和4年)になり、地元の仙台市宮城郡塩竈町にゴルフ場がないことを河北新報社社長一力次郎に相談したところ、1930年(昭和5年)に市内の実業家らによるゴルフ愛好家が協力して、仙台市台原〔1928年(昭和3年)4月1日に仙台市が宮城郡原ノ町編入合併したため、台原も仙台市内となった。〕にサンド・グリーン6ホールの小規模なゴルフ場を建設した。ただし、隣接地には第二師団実弾射撃場「台原陸軍射撃場〔財務省の払い下げの際には「仙台台原小銃射撃場」との呼称になっている。〕」()があって危険であったため、1933年(昭和8年)に「仙臺カントリー倶楽部」を組織して、塩竃町上ノ原の県有地(苗圃地)および私有地に移転することを決めた。
1934年(昭和9年)より赤星四郎の設計により工事が始まったが、(当時は重機が無かったため)総て人力で造成され、かつ、資材購入費も嵩んだたことから資金不足に陥り、5ホールとショートホール1の計6ホールでとりあえず完成として、1935年(昭和10年)10月1日に東北初のゴルフ場「上ノ原ゴルフ場」が開場した。
1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件に端を発して日中戦争が始まると、1938年(昭和13年)1月11日傷痍軍人戦死者の遺族に対応することを主目的とする厚生省内務省から分離・設置されたが、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)に当ゴルフ場を含む隣接地一帯が同省に強制買い上げされたため仙臺カントリー倶楽部は解散し、当地は同省所管の職業協会の北部訓練道場(軍事訓練所・食糧増産所)に転用されることになった。
1945年(昭和20年)8月15日第二次世界大戦終戦となり、当ゴルフコースはイモ畑に転用される予定が中止された。占領期に入り、隣接する多賀城村(現多賀城市)の多賀城海軍工廠跡地は「キャンプ・ローパー」となり〔「『仙台市史』 通史編8 現代1」137頁〕、アメリカ軍空挺部隊が進駐した()〔多賀城海軍工廠の跡地は、米軍がキャンプとして使用した後、仙台港の臨海工業地区、多賀城駐屯地東北管区警察学校多賀城市文化センター東北学院大学多賀城キャンパスなどに転用されている。〕。すると、守屋栄夫塩竈市長(当時)は料亭勝画楼()に地区司令官ティプトン大佐ら幹部を招待し、菊次郎も自社の日本酒浦霞」を持参して臨席した。このとき、菊次郎とゴルフ好きの同大佐との間で当ゴルフ場が話題に上がり、翌1946年(昭和21年)に同大佐の名で当ゴルフ場を米軍のレクリエーション施設として使用するため整備するよう命令書が塩竈市長に出された。整備が終わると米軍がゴルフをするようになり、1947年(昭和22年)4月には進駐軍に正式に接収されたものの、1948年(昭和23年)には職業協会から菊次郎に当ゴルフ場は払い下げられ、所有権だけは佐浦家に戻った。1949年(昭和24年)には米軍工兵隊によって3ホールが拡張され、東北初の9ホールのゴルフ場となった。
サンフランシスコ講和条約の発効を前にした1952年(昭和27年)3月には進駐軍の接収が解除され、当ゴルフ場の経営権も菊次郎に戻った。すると、「仙臺カントリー倶楽部」時代の関係者の後援を得て「仙塩ゴルフ株式会社」を運営会社として設立し、「仙塩ゴルフ倶楽部」も創立した。また、当ゴルフ場は「浦霞コース」と命名された。米軍接収時代にクラブハウスとして使用されていた板カマボコ型兵舎に隣接する形で、新クラブハウスも同年夏に完成(両者とも現在も使用されている)。
高度経済成長期の1960年(昭和35年)にはクラブハウスを増築し、また、従来の姫高麗(日本芝)1グリーンから1965年(昭和40年)には姫高麗芝2グリーンとした。さらに東北で初めてベントグラス(西洋芝)をグリーンに導入し、1968年(昭和43年)には片方のグリーンを、1971年(昭和46年)には両グリーンともベントグラス化した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「仙塩ゴルフ倶楽部」の詳細全文を読む




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