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伊東深水 : ミニ英和和英辞書
伊東深水[いとう しんすい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 

伊東深水 : ウィキペディア日本語版
伊東深水[いとう しんすい]

伊東 深水(いとう しんすい、1898年明治31年)2月4日 - 1972年昭和47年)5月8日)は、大正昭和期の浮世絵師日本画家版画家。本名、一(はじめ)。実娘は女優タレント歌手朝丘雪路
歌川派浮世絵の正統を継いでおり、日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名。人気の「美人画」以外の画題を描きたくとも、それ以外の注文が来ず、画家として困惑する時期もあったという。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表し、評価を高めた。戦後は美人画とも並行し、個人的に独自の題材で日本画を制作することが多かった。人気のあまり、戦後には多くの作品が複製版画として頒布されるようになった。
== 経歴 ==

*1898年東京府東京市深川区深川西森下町(現在の東京都江東区森下一丁目)に生まれる。
*1905年‐深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)に入学。同級生に伊東の友人となった関根正二がいた。
*1907年小学校3年で中退、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く。
*1908年‐職工となり深川区深川東大工町(現在の江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う。
*1911年‐縁あって鏑木清方へ入門。「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進する、このとき14歳。
*1912年‐第12回巽画会展に『のどか』が初入選。
*1913年‐巽画会1等褒状。
*1914年‐再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する。
*1915年‐第9回文展に『十六の女』が初入選。
*1916年‐渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く。
*1919年‐好子と結婚し長男と次男をもうける。
*1922年‐平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌。
*1927年‐大井町に深水画塾を設立。
*1932年‐人物画の再興を目指し「青々会」を設立。
*1935年‐料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけた。
*1943年召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする。
*1945年長野県小諸市に疎開する。
*1948年‐『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞〔『朝日新聞』1948年4月29日(東京本社発行)朝刊、2頁。〕
*1949年鎌倉に転居
*1950年白鳥映雪児玉希望奥田元宋佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる。
*1958年‐日本芸術院会員に推挙
*1972年‐癌により5月8日没、享年74歳。墓所は品川区上大崎の隆崇院にある。法名は画光院一誉明澄深水大居士といった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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