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伊東 静雄(いとう しずお、1906年(明治39年)12月10日 - 1953年(昭和28年)3月12日)は日本の詩人。長崎県諫早市出身。 ==人物== 長崎県立大村中学(現 長崎県立大村高等学校)から、旧制佐賀高等学校(現 佐賀大学)を経て京都帝国大学文学部国文科に学んだ。 卒業後は公立学校教員(公務員)となり大阪府立住吉中学校(現 大阪府立住吉高等学校)教諭となった。終戦後は大阪府立阿倍野高等学校に転勤。詩作活動に耽る傍ら、地方公務員の教員としても勤務するという「二足の草鞋」となり、生涯教職から離れなかった。 旧制住吉中学時代には、『古事記』を教えていたことと、その流行を追わないスタイルから「コジキ」というあだ名をつけられていた名物教師だったというエピソードが残っている。 京大在学中には、文学部教授に旧制大村中学の先輩である朝永三十郎(1965年ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父親)が、旧制住吉中学当時の教え子には、第三の新人の一人である小説家の庄野潤三や2008年ノーベル化学賞を受賞した下村脩がいた〔下村氏ノーベル化学賞受賞 長崎新聞 2008年10月10日閲覧〕。旧制大村中学の先輩に文芸評論家の福田清人(ふくだ きよと)、同学年に早稲田大学文学部教授となった近代文学専攻の国文学者川副国基(かわぞえ くにもと)、國學院大學文学部教授となった古典中国文学者の蒲池歓一(かまち かんいち)がいる。 詩作は大学卒業の頃より始めた。1932年(昭和7年)、同人誌『呂』を創刊。のち『呂』を離れて、同人誌『コギト』に専念する。1935年(昭和10年)処女詩集であり代表作『わがひとに与ふる哀歌』を発行し、萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛を受け一気に名声を高めた〔萩原朔太郎が編んだ『昭和詩鈔』(冨山房百科文庫、復刻1977年)にも収録された。〕。当時日本浪曼派の代表的な詩人として、評論の保田與重郎と並び同時代に多大な影響を与えた。また伊東の日本古典文学やリルケの造詣の深さに由来する浪漫的かつ日本的な叙事詩に耽美を加えた作風は、少年期の三島由紀夫にも多大な影響を与えた〔三島は十代後半に、生涯一度だけ大阪で会っている。伊東は三島から多大に尊敬されていたが、その思いとは裏腹に伊東は三島の人間性と作品を忌み嫌っていた。その事が、日記「全集」で明らかにされた。しかし1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と三島を励まし作品を評価している。三島は『新潮』1966年11月号に「伊東静雄の詩 わが詩歌」で「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」と述べ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛し、全集推薦の辞でも「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。〕。1940年(昭和15年)には第二詩集「夏花」を刊行。1941年(昭和16年)には三好達治、中原中也、立原道造らとともに、詩同人誌「四季」に参加・交流。蓮田善明とも交流があり、蓮田が最後に出征する際、蓮田の乗った列車を大阪駅で見送っている。 1943年(昭和18年)に第三詩集「春のいそぎ」を刊行。1947年(昭和22年)に第四詩集「反響」を刊行。1953年(昭和28年)、肺結核により死去。死後まもなく「反響以後」が刊行された。 忌日に近い3月末の日曜日には、菜の花忌として顕彰。諫早市の伊東静雄顕彰委員会によって、現代詩を賞する伊東静雄賞が設けられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊東静雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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