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佐木 隆三(さき りゅうぞう、本名:小先 良三(こさき りょうぞう)、1937年4月15日 - 2015年10月31日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家で、北九州市立文学館名誉館長、九州国際大学客員教授。法廷のルポルタージュでも広く知られる。旧朝鮮咸鏡北道穏城郡生まれ。 == 来歴 == 両親とも広島県出身で〔『週刊ポスト』(小学館)2012年5月4/11日号・P.134-138〕父は農家の出。一旗あげようと田畑を売り払って朝鮮に渡り、佐木も朝鮮で生まれた。 1941年、銀山の所長をしていた父が呉の海軍に召集されたため、一家で日本に引揚げた。父の郷里で広島市から北へ40km、中国山地の山あいの寒村である広島県高田郡小田村(現・安芸高田市甲田町)で育つ。1945年、終戦間際の7月に父がフィリピンミンダナオ島ザンボアンガで戦死。8月原爆のきのこ雲を見る〔きのこ雲の記憶 絵本に 直木賞作家の佐木さん|ニュース|ヒロシマ平和メディアセンター 〕。終戦後は生活困窮のため、広島市へヤミ米を運んだりした。 1950年、母の親戚を頼り八幡市(現・北九州市八幡東区)へ移る。1956年、福岡県立八幡中央高校卒業後、八幡製鐵(現・新日鐵住金)に就職。同人誌などに小説を書き始め、「新日本文学」や「文學界」に発表。長崎造船の中里喜昭とともに、労働者作家として注目を浴びる。 1960年、八幡製鐵労組(労働組合)の活動をはじめ、安保闘争の直前から日本共産党に入党、組合活動を活発化させるが、まもなく共産党を離れ、共産党を批判する小説を書く。 1961年、『大罷業』を『別冊日曜作家』に発表。1963年、組合活動を戯画化して描いた「ジャンケンポン協定」により、新日本文学賞受賞。 1964年に、八幡製鐵を退職。以後作家活動に専念する。この年に、後年の代表作『復讐するは我にあり』のモデルとなった連続殺人事件の犯人である西口彰の裁判を一度だけ傍聴している。 1971年、沖縄へ引越し2度目の結婚。コザ市の外人アパートに住み、沖縄復帰闘争の活動家たちとかかわり復帰問題に深く関与した。11月17日、沖縄返還における沖縄返還協定批准阻止闘争による沖縄ゼネストで、作家だからデモの首謀者に違いないと警察に疑われ12日間、留置所に勾留されたが無実と判明して釈放された。1973年、2年住んだ沖縄を離れ千葉県市川市に移る。 1976年、実在の連続殺人鬼をモデルとした『復讐するは我にあり』により第74回直木賞受賞。その後、1979年に松竹で映画化され、今村昌平監督、緒形拳主演でこの年の映画賞を独占。佐木の名も広く知られることとなった。なお、映画化に至る経緯では新聞沙汰になるほどのトラブルが噴出した(復讐するは我にありのページを参照)。 1978年7月、銀座の路上で交差点に赤信号停止しているタクシーに乗ろうとしたところ、タクシー乗り場から乗るように言われたことに逆上。タクシーのボンネットに乗り上げて暴れてフロントガラスを破壊したため、警察に逮捕される。この時、佐木はかなり酒に酔っていた。 1984年、『海燕ジョーの奇跡』が時任三郎主演で映画化される。 1985年、別府3億円保険金殺人事件をモデルにした『一・二審死刑、残る疑問―別府三億円保険金殺人事件』を発表。被疑者が佐木の連載を読んで、無罪放免にしてくれるならとさまざまな裁判資料を提出。拘置所で佐木との面会で被疑者は冤罪を主張するも、「無罪になれば保険金が入るから謝礼する」と発言。ところが佐木は「無罪だとはこれっぽっちも思わなかった」ことから、後年被疑者は逆恨みの手紙を送っている。ちなみにこの事件は、一二審が死刑となり上告中に被疑者が死亡したことで公訴棄却されている。 1990年、『身分帳』により第2回伊藤整文学賞受賞。 1991年、富山・長野連続女性誘拐殺人事件をモデルとした『男の責任 女高生・OL連続誘拐殺人事件』を発表後、犯人から名誉毀損で訴えられる(犯人は現在死刑確定囚)。その後、2001年、名古屋高裁の控訴審判決で、「重大な事件を犯しても、人格権は否定されない」と犯人の請求が一部認められて、佐木と出版元の徳間書店は75万円の支払いを命じられる。佐木らは上告せず、75万円を支払った。 1999年、北九州市門司区に移る。2006年、北九州市立文学館館長に就任し、2012年3月いっぱいまで務めた(満期解任後は名誉館長に)。2009年4月より、北九州市立大学の特任教授(非常勤)に就任。九州国際大学客員教授も務めた。 2015年10月31日、下咽頭がんのため北九州市小倉北区の病院で死去〔佐木隆三氏死去 直木賞「復讐するは我にあり」 西日本新聞 2015年11月1日閲覧〕。。お別れの会は同年12月9日、北九州芸術劇場小劇場で行われ、長年親交があった古川薫が「無法松のように気が荒い男であったが、心の優しい人だった」と弔辞を読み上げ、故人に別れを告げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐木隆三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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