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佐竹 秀義(さたけ ひでよし)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。清和源氏義光流。源義光(新羅三郎)の孫の源昌義が常陸国佐竹郷に住んで、佐竹を号したことに始まる佐竹氏第3代当主。2代当主佐竹隆義の次男。兄・義政の死後は嫡男となる。 == 生涯 == 平安末期の佐竹氏は相馬御厨の支配権などを巡って房総半島の上総氏や千葉氏との関係が悪化していた。そのような状況下、佐竹氏は平氏に接近していた。 治承4年(1180年)8月、以仁王の令旨をうけて源頼朝が挙兵した。頼朝は石橋山の戦いに敗れたが、房総半島に上陸すると千葉常胤、上総広常などを味方につけて挽回し、たちまち坂東一円の豪族たちを従えた。だが、佐竹氏は平氏との縁が深かったため、頼朝には従わなかった。同年10月富士川の戦いにおいて頼朝を征伐にきた平氏軍は戦闘を交えることなく都に撤退する。その不戦勝の頼朝は上総広常らの薦めで佐竹氏を討つことを決める。長年の意趣を抱えていた上総広常は義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、これに応じた兄・義政が広常に殺害され、その後治承4年(1180年)11月に秀義ら佐竹一族が立てこもっていた金砂城は頼朝軍に攻め落とされた。父・隆義の不在中の出来事で、代理で金砂城を守っていた秀義は奥州(もしくは常陸奥郡)の花園へと逃亡する(金砂城の戦い『吾妻鏡』)。寿永2年(1183年)、父の死により跡を継ぐ。 その後、頼朝から罪を許されて家臣として列せられ、文治5年(1189年)の奥州合戦においては頼朝軍の一員として参戦して武功を挙げたため、御家人の一人に列せられた。建久元年(1190年)、頼朝の上洛に随行している。承久3年(1221年)の承久の乱では、自身は老齢のために参戦しなかったが、部下や子の義重、助義、義茂らを派遣し、功を上げさせた。 嘉禄元年(1225年)12月18日、鎌倉名越の館にて死去。法号は蓮実(れんじつ)。跡を義重が継いだ。 category:平安時代の武士 category:鎌倉時代の武士 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐竹秀義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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