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元聖王(げんせいおう、生年不詳 - 798年)は新羅の第38代の王(在位 : 785年 - 798年)であり、姓は金、諱は敬信〔『三国遺事』王暦では、「名(諱)は敬慎、或いは敬信、『唐書』は敬則とする」と記す。しかし、『旧唐書』211・新羅伝、『新唐書』236・新羅伝ともに敬信と記される。〕。第17代の奈勿尼師今の十二世孫であり、父は一吉飡(7等官)の金孝譲、母は朴氏の継烏夫人。王妃は角干(1等官)の金神述の娘の淑貞夫人〔系譜についての本文記述は、王妃名を除き『三国史記』新羅本紀・元聖王紀に従う。『三国遺事』王暦では、父を孝譲大阿飡(5等官)、母を仁■(欠字)または知烏夫人とし、昌近伊己の娘とし、姓には触れていない。王妃は『三国史記』では「金氏神述角干女」、『三国遺事』では「淑貞夫人。神述角干之女」とする。〕。785年正月に先代の宣徳王が死去すると、金周元〔後に、金周元が王位に就けなかったことを不服として、子の金憲昌が反乱を起こしている。〕との抗争に勝って王位に就いた。 == 即位まで == 第36代恵恭王の末年に志貞の反乱(780年2月)が起こり、当時の上大等の金良相(宣徳王)がこれを鎮圧するために挙兵すると、伊飡(2等官)だった金敬信も参加し、乱の鎮圧に功績があった。反乱のなかで恵恭王が落命してその後を金良相が宣徳王として即位し、敬信は宣徳王の下で上大等に任命された。 宣徳王が子を儲けないままに死去し、群臣は初め武烈王五世孫の金周元を推戴しようとしたが、周元が大雨に遭って王城入りできない間に敬信が王城に王位を継いだ、と伝えられている。『三国史記』新羅本紀では、この大雨は周元の即位を天が望まないためと解し、改めて王の推戴を審議して敬信を選出することになり、敬信が即位すると雨が止んだ、即ち天意に適ったと伝える。『三国遺事』紀異・元聖王条では、周元が上宰、敬信が次宰であったときに、敬信が「貴人の帽子を脱いで素笠を被り、手に十二弦の琴を持ち、天官寺の井戸に入る」という夢を見たこと、その夢占いによれば「帽子を脱ぐのは上に人がいなくなること、素笠を被るのは王冠を被る兆し、十二弦の琴は十二世孫が王位を継ぐ兆し、天官寺の井戸に入るのは宮殿に入る兆し」であること、宣徳王の死後に敬信が王位を継いだのはほぼ夢のとおりであった、と伝えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「元聖王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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