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光吉氏(みつよしうじ、みつよしし)は、豊後国の氏族。 『古事記』、『日本書紀』では、スサノオ(須佐能乎命、建速須佐之男命)の五男(六世子孫とも)とされる出雲族である大神神社の大物主(大国主)を祖先とする大三輪氏と位置づけられていることが『大神氏の研究』(鈴木正信)にある。この飛鳥時代の後半期の朝廷において『物部』など中央氏族として筆頭最高位にあった大三輪氏から、豊後守となる平安時代の大神氏の系譜である大神惟基の子、惟平(コレヒラ)が豊後国大分郡稙田にて、稙田氏を名乗り、稙田有綱の子が田尻氏を名乗り、東稙田に住した田尻実綱の子が戦国時代に光吉を名乗ったことに始まる。 豊後には、戦国武将の大友宗麟もいて、深い姻戚関係を作る。 全国およそ1,500人の光吉姓は大神惟基を始まりとするこの豊後大神一族系譜のみ、特に医師や医療従事者、軍人(自衛官)が多いらしい。 また、出雲や関西西日本に光吉神社や光吉大明神、光吉大神もあるが関係は不明。 == 出自 == 『大神氏の研究』(鈴木正信)によれば、「大和盆地を見下ろすようにそびえる三輪山は、古来より神の坐す山として篤い崇敬を集めてきた。その山麓に鎮座する大神神社(奈良桜井市三輪)は、わが国でも最も早くに創祀とも言われる古社であり、(中略)かつて、この三輪山での祭祀を主たる職掌として大和王権に仕えていたのが、大三輪氏という古代氏族である」と述べている。豊後の大神氏はこの古代氏族の流れを受け継ぐ、スサノオや大国主の末裔とあり、その一族の豊後への派生が大神氏とされるのが有力である。 家系図を見ると、大神吉成 (筑後介、従六位下)から九州へ移住したことがわかる。また、大神氏の祖を宇佐八幡宮宮司とする説も過去にあったが、当時の朝廷より官位を貰って筑後から豊後に赴任した史実があるため宮司起源説は相手にされていない。ただし豊後側の家系図と大和側の家系図にある忍人が同一かどうかなどまだ研究の余地は残る。(神話からの考察で仮説がある後ほど『三輪氏』から)大分県地方史研究会の『大分縣地方史』(第79号昭和50年10月)より、大神朝臣良臣の時に農民から懇願され寛平四年三月に豊後守(豊後介)に再任された(左大史外従五位下豊後介貞観四年改賜大神朝臣姓寛平四年三月再任豊後介既満期任當去其職百姓惜慕請留其子庶幾)とあり、これから史実として豊後の主となったことがわかる。特に大神惟基は九州最大の武士団大神氏の祖として歴史的に有名で、熊本の阿蘇氏や菊池氏と供に源氏として活躍したと『平家物語』にある。光吉氏はこの大神惟基を祖とする稙田氏から田尻氏になり、戦国時代あたりに現在の大分市光吉地区で田尻氏から一族を興す。大友氏台頭につき、同氏との姻戚関係から、大友系大神氏となる一族と、そうでない一族に豊後大神氏は分かれたようである。面白いことに『大分縣地方史』には大三輪氏の代で大友主命(是筑紫国夜須群於保奈牟智神社是也)とある。この大友主命は、垂仁三年三月条において、「三輪君祖」とある。『日本書紀』後に豊後の主権抗争から姻戚関係となる大友氏を予見させる。 一方、神話からの出自を考察すると、古代士族の研究⑦『三輪氏』(宝賀寿男)より、基本的に大神氏(豊後)は大和大神氏同様の『蛇竜』との『神婚』から始まるという独特な一族開祖の出自神話を持ち、双方の神話共に海神族(中国江南地方発祥)の特徴(弥生人の遺伝出自と共通)を受け継いでいるともいわれる。豊後側の『蛇竜』神話は阿蘇を中心とした竜神から始まった説もあり、その神がまた同じ『蛇竜』神話を持つ大三輪氏一族の姫に子供を授けたという流れも明治時代より指摘される。また、スサノオなどの天孫族に伝わる天孫降臨などの表現特性も、ユーラシアのツングース族の始祖伝来表現によく見られると指摘されている。また、スサノオが出雲の神だとする研究者も多く、司馬遼太郎は『歴史の中の日本』において出雲族をツングース系としている。また、大物主の妻として、活玉依昆売が葛城地方とし、『山城国風土記』では、賀茂建角身命の娘とされ、弓削部(物部氏系)や矢作部(物部氏系、陰陽道の安倍晴明の祖である賀茂氏、賀茂建角身命の男神を祖とする)の子を孕むとある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光吉氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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