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光永 星郎(みつなが ほしお、慶応2年7月26日(1866年9月4日) – 昭和20年(1945年)2月20日)は、日本の広告代理店・電通の創業者(より正確には、日本広告および日本電報通信社の創業者)である。雅号は「八火」。 == 生涯 == 1866年(慶応2年)7月26日(旧暦)、熊本県八代郡野津村(現・氷川町)出身。幼名は喜一。 宮原町の寺子屋に通い始め、野津小学校(のちの東光寺小学校)、小川町(現・宇城市)の漢学塾「菁莪堂(せいがどう)」をひらく大槻英輿(おおつきえいこう)のもとで学んだ。1880年(明治13年)、共立学舎に入ったが、中途で退学。当時高揚していた藩閥打倒運動に共鳴したためとみられる。 陸軍士官学校の予備門育雄校に入り、軍人を志すが、瘭疽(ひょうそ)のため右脚の自由を失った。 軍人になる道を閉ざされた光永は政治家を志し、自由党の政治家らと共に政府批判を展開したが、1887年(明治20年)に保安条例違反により、東京から3里以内に入ることを禁じられた。このとき、尾崎行雄、星亨、中江兆民らが同様に追放処分を受けている。 のち、めさまし新聞や福岡日日新聞などに寄稿するようになり、日清戦争時には従軍記者として中国に向かう。この時、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験から、通信社の設立を構想するようになる。同時に広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料と新聞社に支払う広告料を相殺することを思い立つ。光永の採ったこの方式は、近代的通信社の先駆であるフランスのアヴァスと同様の発想に基づいていた。 通信業を興すには莫大な先行投資を要することから、光永は広告代理店を先に設立した。しかし、10万円としていた資本金のうち、実際に調達できたのは5000円に過ぎなかった。 1901年(明治34年)7月1日、光永は電報通信社を創業。11月、同社を日本広告に併設した。5年後の1906年(明治39年)12月27日、「日本電報通信社」(以下「電通」)を興し、「電報通信社」を買収した。1907年には、アメリカ合衆国で創業したばかりのUP(United Press Association、現在のUPI)と通信契約を締結した。 1931年(昭和6年)の満州事変後、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上した。光永は強硬に反発したが、かなわなかった。1936年(昭和11年)、新聞聯合社の後身「同盟通信社」が誕生すると、電通は通信部を同盟に譲渡。以後、電通は広告専門業者として再出発した。 1945年(昭和20年)、死去。1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。 墓地は熊本県氷川町の桜ケ丘公園内にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「光永星郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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