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児井 英生(こい えいせい、1908年8月21日〔『伝・日本映画の黄金時代』p.19.〕 - 1992年3月10日〔『活動屋 児井英生』、p.6.〕)は、日本の映画プロデューサー、映画監督、脚本家、作詞家、実業家である。石原裕次郎を売り出し、小林旭をスターにした人物として知られる〔『活動屋 児井英生』帯。〕。本名は児井 英男(こい ひでお)、大都映画でのペンネームは高樹 彦九郎(たかぎ ひこくろう)である。児井プロダクション代表。 == 来歴 == 1908年(明治41年)8月21日、兵庫県神戸市に鉄道院の高級官吏の長男として出生。姉が2人の末っ子だった〔。 旧制中学校の私立芝中学校を経て、早稲田大学文学部を卒業後、衣笠貞之助の紹介で1931年に松竹キネマ京都撮影所監督部に入社した〔『伝・日本映画の黄金時代』奥付.〕。1932年(昭和7年)、日本活動写真(日活)に移籍し、1935年(昭和10年)、監督に昇進〔、黒川弥太郎主演のトーキーの剣戟映画『敵討三都錦絵』で監督としてデビューした。1936年(昭和11年)、西宮市の甲陽撮影所に設立された甲陽映画に参加、羅門光三郎主演のサウンド版の剣戟映画『あばれ長脇差』を監督するが、1937年(昭和12年)、京都のマキノトーキー製作所の解散後、跡地に残党の今井理輔が設立した今井映画製作所に入社、海江田譲二主演の『青葉城異変』や『吉良の仁吉』等を監督する。1938年(昭和13年)には同社は解散し、配給提携をしていた東宝映画の東宝映画京都撮影所に入社した〔。同年、再び海江田主演の『戦国一番侍』を監督するが、児井にとってこれが最後の監督作品となった。同撮影所で脚本を提供するほか、東京の大都映画での作品に「高樹彦九郎」名義で脚本を提供した。 このころ、「児井英男」名義で作詞家としての活動も行った。白木義信作曲、児玉好雄歌唱の『清水次郎長』(1935年)等である〔作品データベース検索サービス 、JASRAC、2010年1月30日閲覧。〕。児井はJASRAC全信託作家である〔。 1942年(昭和17年)、映画プロデューサーに転向、千葉泰樹監督、入江たか子・月形龍之介主演の『白い壁画』でプロデューサーとしてデビューした。 第二次世界大戦による物資窮乏で映画製作が困難になり、同年に社団法人映画配給社の南方局へ入社。東南アジアへ宣撫工作を行う香港支社総務部長後に支社長として1945年まで香港へ赴任し、大本営の報道班員も務めた〔〔『伝・日本映画の黄金時代』pp.82-83〕。 第二次世界大戦終結後に帰国。映画配給社南方局で軍に協力したとしてGHQから1948年まで公職追放され、東宝の森岩雄から演劇宣伝部長の仕事を世話してもらう〔『活動屋 児井英生』p.80〕〔『伝・日本映画の黄金時代』pp.89-90〕。公職追放解除の内示があり、1948年2月末で東宝を退社〔『伝・日本映画の黄金時代』p.97〕。1947年(昭和22年)3月25日に設立された新東宝映画(のちの新東宝)と契約して1948年に映画プロデューサーとして復帰した〔『伝・日本映画の黄金時代』p.103〕。同社で最初にプロデュースした映画は市川崑監督の『三百六十五夜』東京篇・大阪篇の2作で、1950年(昭和25年)には、松竹から小津安二郎を迎え、『宗方姉妹』を製作した。小津から改名のアドヴァイスを受け、本作をもって「児井英生」と改名した。同年、株式会社児井プロダクションを設立する〔。 翌1951年(昭和26年)には、東宝で渡辺邦男監督の『伊豆物語』、成瀬巳喜男監督の『舞姫』、溝口健二監督の『武蔵野夫人』を製作した。1952年(昭和27年)、新東宝と児井プロダクションとの提携作品、溝口健二監督の『西鶴一代女』を製作、国内の興行はふるわなかったが作品は評価され、同年のヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。 3年間のブランクを経て、新東宝での最後の作品、松本常保製作、冬島泰三監督、高田浩吉主演の剣戟映画『紋三郎の秀』を企画して復活。 1954年3月をもって新東宝を離れて〔『伝・日本映画の黄金時代』p.214〕、常務の江守清樹郎の誘いで日活と契約〔『活動屋 児井英生』p.11〕。契約プロデューサーだったが、高額の契約料で事実上の日活専属となった〔『伝・日本映画の黄金時代』pp.218-219〕、 以後、活動の場を日活に移し、日本映画監督協会が企画し、齋藤良輔と小津安二郎が脚本を執筆した、女優・田中絹代の監督作『月は上りぬ』を製作した。前者は1955年(昭和30年)1月15日に、後者が1週早く同月8日に公開された。 その後、1957年から石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』、小林旭の「渡り鳥シリーズ」、吉永小百合・浜田光夫主演の『愛と死をみつめて』などのヒット作を連発、ヒットメーカーとして名を馳せた〔。 1967年に江守清樹郎専務らが経営不振の責任を取って退陣して児井も孤立〔『伝・日本映画の黄金時代』pp.310-312〕。1968年の『女の手配師 池袋の夜』が日活での最後の作品となった。その前後に日活の外注作品として青山プロ名義で3本のピンク映画を製作し、大ヒットを飛ばす〔『活動屋 児井英生』p.322〕〔『伝・日本映画の黄金時代』pp.313-315〕〔鈴木義昭『昭和桃色映画館 まぼろしの女優、伝説の性豪、闇の中の活動屋たち』社会評論社、2011年、pp.192-193〕。1970年(昭和45年)、日活との契約を解消してフリーランスとなり、映画界から引退した〔〔。1986年(昭和61年)、勲四等瑞宝章を受章した〔。 1992年(平成4年)3月10日、東京都渋谷区恵比寿の病院で死去した〔。満83歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「児井英生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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