|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 六 : [ろく] 1. (num) six ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning ・ 書 : [しょ] 【名詞】 1. penmanship 2. handwriting 3. calligraphy (esp. Chinese) ・ 書風 : [しょふう] (n) style of handwriting or calligraphy ・ 風 : [ふう, かぜ] 1. (adj-na,n,n-suf) method 2. manner 3. way
法隆寺金堂薬師如来像光背銘(ほうりゅうじ こんどう やくしにょらいぞう こうはいめい)は、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背裏面に刻された銘文である。 題号の「金堂薬師如来像」を薬師如来・薬師仏・薬師像・薬師などとも称し、銘文の内容が造像の由来であることから「光背銘」を造像銘・造像記とも称す。ゆえに法隆寺薬師造像銘などと称す文献も少なくない〔矢島恭介 p.142〕〔藤原鶴来 p.171〕〔二玄社(書道辞典) p.237〕。 == 概要 == 法隆寺金堂に安置される薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文である。法隆寺には貴重な書の遺物が豊富に存在するが、本銘文は年紀を有する金石文として法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とともに特に著名である。本銘文には法隆寺の創建と薬師如来像の造像の由来が記され、推古天皇15年(607年)の年紀を有することから、法隆寺の創建事情にかかわる基本的な資料の1つとなっている。ただし、像の制作年代および銘文の記された年代を文字どおり推古天皇15年(607年)とみなすことは福山敏男の研究以来、否定されており、実際の制作年代は法隆寺金堂「中の間」本尊の釈迦三尊像(推古天皇31年 = 623年)より遅れるものとみなされている(#造像・刻字の年代を参照)〔〔〔〔大山誠一 p.10〕。 本銘文の文体は、釈迦三尊像光背銘文の四六駢儷文とはかなり異なり、漢文の日本語化が進んでいる(#文体を参照)。従来、推古朝(在位・593年 - 628年)の当初からこのような日本語化の進んだ文章が存在していたとされてきたが、現在では否定されている。ただし、他の遺文から推古朝には日本語文が発生していたことは確かである〔沖森卓也 p.82〕〔上原和 pp..118-120〕。 ; : 法隆寺金堂内陣の「東の間」〔法隆寺金堂には「中の間」の本尊として釈迦三尊像、「東の間」の本尊として薬師如来像、「西の間」の本尊として阿弥陀三尊像を安置する。ただし、「中の間」「東の間」「西の間」のあいだに壁や間仕切りがあるわけではない。〕に安置されている薬師如来像(国宝、指定名称は銅造薬師如来坐像(金堂安置))は、像高63.0cmの金銅製の坐像である。なお、本像の両脇侍とされる銅造の菩薩立像2体(重要文化財)が法隆寺の大宝蔵院にあるが、作風からみて、薬師像と本来の一具ではない〔大西修也『法隆寺III 美術』(日本の古寺美術)、保育社、1987、pp.103 - 104〕〔一部文献に「薬師像の両脇侍像は明治時代に海外に流出した」(上原和 p.118)とあるが、薬師像の脇侍像は寺内に存しており、明治時代に海外に流出したのは金堂西の間の阿弥陀如来像の右脇侍像である。〕。 ; : 金銅像(こんどうぞう)とは、銅で造られた像の表面に鍍金(金めっき)を施したものをいう〔日本史用語 p.27〕〔長岡龍作 p.13〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|