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六条家(ろくじょうけ)は、羽林家の家格を有する公家。村上源氏久我流庶流。太政大臣久我通光の五男通有を家祖とする。家名は、2代有房が京都六条に住したことによる。なお、歌道家として著名な六条家は別系(藤原北家末茂流)である。 == 概要 == 家業は有職故実。江戸時代の家禄は265石。外様。菩提所は百万遍源光院。 家祖通有は不遇に終わるも、その子有房は後宇多上皇の院使として信任厚く、元応元年(1319年)危篤に際して内大臣に至り、堂上家の礎を築いた。その子有忠は正二位・権中納言に昇り、鎌倉幕府に対して東宮邦良親王の践祚を求めたが、親王の薨去に伴って出家し、以後大納言を極官とする羽林家となる。なお、有房・有忠父子は書道と和歌の才能をもって聞こえ、その作品は古筆研究家から珍重されている。有忠の子有光は六条家で唯一淳和奨学両院別当となった。その孫有定には後嗣なく、支流の千種家から有継を養子として迎えるが、有継が永正9年(1512年)伊勢で没するに及んで六条家は再び中絶した。 天正4年(1576年)冷泉為純の四男俊久(有広)が源姓に改めて家督を相続する。相続者については、当初清和源氏の竹内長治も候補に挙がっていたという。有広の孫有和の後は、一男有綱・二男房忠が長病を理由に家嫡を辞退したため、三男有藤が家督を継いだ。以後、有起・有栄・有庸が権大納言に昇った他、有栄は議奏、有庸は議奏・武家伝奏にも補されている。幕末の有容は初め勤王派公家であったが、程なく公武合体を唱えて議奏となる。明治17年(1884年)有熙が子爵を授けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「六条家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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