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内藤 忠次(ないとう ただつぐ、正保2年(1645年) - 宝永元年5月25日(1704年6月26日))は、江戸時代前期に志摩国鳥羽藩の世嗣だった人物。鳥羽藩2代藩主・内藤忠政の長男。母は板倉重宗の娘。正室は板倉重郷(重宗の子)の養女(形原松平典信の娘)。娘は板倉重常(重郷の子)の養女となった後、酒井忠親に嫁いだ。官位は従五位下、志摩守。 鳥羽藩嫡子として生まれ、明暦2年(1656年)に徳川家綱に御目見し、万治2年(1659年)に叙任された。しかし、寛文11年(1671年)に病気により廃嫡され、代わって弟の忠勝が嫡子となった。忠勝は寛文13年(1673年)に家督を継いだが、延宝8年(1680年)に永井尚長を刺殺した咎で切腹し、内藤家は絶家となった。忠次はその後の宝永元年(1704年)、60歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「内藤忠次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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