|
刁 協(ちょう きょう、? - 322年)は、中国東晋時代の政治家。字は玄亮。勃海郡饒安県(河北省滄州市塩山県の塩山鎮西南)の人。祖父は魏の斉郡太守の刁恭、父は西晋の武帝期の御史中丞の刁攸。子は刁彝(大倫)、孫は刁逵(伯道)、刁暢(刁畃)、刁弘、刁聘ら、曾孫は刁雍(淑和)、刁弥(宝恵?)。 == 生涯 == 若くして、琅邪王司馬睿(後の元帝)の側近として仕えた。 少年時代から博識で、西晋の時代、皇族である成都王・司馬穎、趙王・司馬倫、長沙王・司馬乂、東嬴公・司馬騰らの幕僚などを歴任した。 永嘉年間、刁協は河南尹に任命されるが、拝命する前に、匈奴・鮮卑など北方異民族の南下で中原が戦乱に陥ると(永嘉の乱)、琅邪王・司馬睿とともに江南に難を逃れ、その幕僚として活躍する。318年、司馬睿が皇帝に即位し東晋を建国すると、刁協は尚書左僕射に任命され、朝廷の典章制度の制定に携わった。大興の初年に尚書令に昇進し、数年後に紫金光禄大夫を加えられた。 元帝は即位すると、王導・王敦ら琅邪王氏の勢力が強大になりすぎたことを警戒し、刁協・劉隗を側近として親任し、王氏の勢力を削ぐことを画策した。刁協は奴隷を解放して近衛兵を組織するなど、皇帝権力の強化を進めようとした。しかし刁協は傲慢な性格で、上司に媚び部下に厳しい態度で接し、さらに酒に酔ってほしいままに振る舞うことがあったという。このため朝廷での刁協への反発は激しいものがあった。吏部尚書の周顗が病気で一時重態になった時、上役であった刁協は親切の限りを尽くして彼を介抱し、そのおかげで持ち直すことができた。ところが周顗の弟の周嵩は兄の見舞いに来るや、いきなり刁協を殴りつけ、周顗に対しては「どうして佞人刁協などと親しくされるのですか」となじったという逸話も残っている〔『世説新語』方正篇より。〕。 322年(永昌元年)、大将軍として武昌に鎮していた王敦は、劉隗・刁協ら君側の奸を打倒するという名目で謀反を起こした。元帝は刁協に六軍(皇帝直属の軍)を率いて迎撃することを命じたが、王敦率いる大軍に大敗した。劉隗と刁協は、彼らの身を案じた元帝の意を受け、建康を脱出した。だが刁協は逃亡する途中で、部下によって殺害され、その首級は王敦に差し出された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チョウ協」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|