|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 加 : [か] 【名詞】 1. addition 2. increase ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field ・ 兼 : [けん] 1. (conj,n) and 2. in addition 3. concurrently ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 合戦 : [かっせん] 【名詞】 1. battle 2. engagement ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight
加治田・兼山合戦(かじた・かねやまがっせん)は、天正10年(1582年)7月に斎藤利堯と森長可との間で行われた合戦である。 ==合戦に至る経緯== 天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長が死去した後、6月27日の清州会議により織田信孝が岐阜城主となって美濃国を支配した。信孝は次第に反秀吉の態度を示し始めるが、西濃や東濃の諸将の多くは秀吉に加担した。鳥峰城主森長可も、始めは信孝に属して人質仙千代(忠政)を送っていたが、ひそかに人をやり忠政を奪い返して秀吉派につくと、本能寺の変後の混乱に乗じて、東濃・中濃を支配しようとした。長可は7月2日未明に鳥峰城の近隣にある肥田忠政の米田城(加茂山)を急襲した。肥田忠政は病を患っていた為、同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「玄蕃(肥田忠政)は病気であるから意のままにならなかったであろう。また加茂山には地の地の利が無い。それにひきかえ、加治田は攻撃に備えて大きな川を背にして、城兵の勇気のためには利のあるところである。加治田の一か所にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる〔『金山記全集大成』(森勝蔵長一の武功)〕。長可は肥田忠政を追って斎藤利堯が城主を務める加治田城の攻略に向かった。 一方の斎藤利堯は弟・加治田城主の斎藤利治の留守居であり、本能寺の変当時は岐阜城の留守居でもあったと見られるが、変報を受けると岐阜城を掌握し、6月4日には美濃瑞龍寺・崇福寺・千手堂・西入寺に禁制を掲げている(瑞竜寺文書他)。その後、羽柴秀吉と信孝が明智光秀を討ち、6月20日ごろ京都を出立して美濃へ向かうと、利堯は国衆の人質を連れ、不破郡長松(現大垣市長松町)で引き渡しを行った〔『浅野家文書』十月十八日付の岡本良勝・斎藤利堯宛の秀吉の書状〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加治田・兼山合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|