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北条 氏規(ほうじょう うじのり)は、戦国時代、安土桃山時代の武将。北条氏康の五男で、氏政、氏照、氏邦の同母弟。相模三崎城主、伊豆韮山城城代。妻は北条綱成の娘高源院〔氏規妻の法名は高源院殿玉誉妙顔大禅尼。〕。美濃守を名乗る。 == 生涯 == 天文14年(1545年)、第3代当主・北条氏康の五男として生まれる。幼名は助五郎。幼少時は、今川義元の人質として駿河国の駿府で過ごした。一時期は義元の養嗣子となり、氏真に次いで次男扱いであったとされる〔出典:『言継卿記』『喜連川文書』〕。小田原には永禄年間に戻ったとされるが〔永禄8年(1565年)には伊豆で氏規が文書を発給しているので、少なくともこの頃には北条氏のもとへ戻ったと思われる〕、この頃に関する詳しい史料はない。なお、この駿府人質時代に徳川家康も駿府で人質となっていたため、この頃から二人に親交があったとする説があり、『大日本史料』などはこの説を載せている。また『駿国雑誌』(19世紀前期の駿河国の地誌、阿部正信著)では、家康と住居が隣同士だったとも伝えている。 兄の氏照や氏邦に対して氏規は秀でた外交面における活動が顕著で、越後上杉謙信や甲斐の武田勝頼、織田信長没後の徳川家康、奥羽の伊達氏や関東の蘆名氏との外交・同盟において取次を務めている。徳川家康から北条氏規宛の書状などが多数現存しており、後述の豊臣秀吉が北条氏に上洛を求めた際には、家康からの働きかけは氏規に対するものが多く、家康が氏規を北条氏の窓口役として見ていた事実が伺える。 その一方、永禄12年(1569年)の武田信玄の伊豆侵攻の際には韮山城を守備して武田軍を撃退。この頃から、武将としてもその活動を見せている。また、相模国三浦郡三崎宝蔵山のあたりに領地を持っていたことが判明しており、地理的要因から三浦水軍に対する担当者であったとされている〔出典:『北条五代記』〕。 豊臣秀吉が九州征伐を完了すると、氏規は大局を読み秀吉への臣従を主張した。北条家の当主に代わって上洛して秀吉と数度の交渉に当たっている。しかし、最終的に氏規の働きは報われず、天正18年(1590年)、小田原征伐が始まると韮山城へ籠もり、40,000の豊臣軍を相手に300余と言われる寡兵で4ヶ月以上の間抗戦するという善戦ぶりを見せたが、最終的には家康の説得を受けて開城。後に、北条氏政・氏直親子に降伏を勧める役割を果たした。 戦後は、北条氏直に従って高野山に赴く。のちに秀吉に許され、天正19年(1591年)には河内国丹南郡2,000石、文禄3年(1594年)には河内国の河内郡に6,980石を宛てがわれ、万石以下ながら狭山城主として一応の礼節を持って報いられている。 慶長5年(1600年)2月8日、病死。享年56。墓所は大坂の専念寺、法名は一睡院殿勝譽宗円大居士。北条氏盛の継承が認められ、その子孫は狭山藩主として、明治維新まで存続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条氏規」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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