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北西部条例(ほくせいぶじょうれい、英:Northwest Ordinance)は、1787年7月13日に連合規約下のアメリカ合衆国連合会議で全会一致で可決された法律である。正式な条例名はオハイオ川の北西部におけるアメリカ合衆国の領土の統治に関する条例(An Ordinance for the Government of the Territory of the United States, North-West of the River Ohio)であり、自由の条例(Freedom Ordinance)という名でも知られる。1789年8月7日、アメリカ合衆国憲法の下で若干の修正が施され、アメリカ合衆国議会で肯定された。 アメリカ合衆国が統治する最初の領土(テリトリー、territory)として、五大湖の南、オハイオ川の北と西、ミシシッピ川の東の地域を北西部領土と規定した。 この条例は、大陸会議またはそれに続く連合会議(以下中央政府と呼ぶ)で可決された法令の中でも、アメリカ独立宣言以外では、ほぼ間違いなく最も重要なものである。条例は、それまでに存在した州の拡張ではなく、新しい州の創立を認めることでアメリカ合衆国が北アメリカの西方への拡大を行う方向性を決めた。この領土における奴隷制度を禁止したために、アパラチア山脈とミシシッピ川の間の地域でオハイオ川が奴隷制度を認める州と認めない州との境界になった。この区分けは、奴隷制度を認める州と認めない州との間の力関係を平衡させることになり、南北戦争までの19世紀における合衆国の重要な政治的問題の基盤となった。 == 歴史 == 1763年のパリ条約でイギリスはフランスから北西部領域を獲得した。この領域は一般にオハイオ領土と呼ばれ、1763年宣言によって白人の入植を制限してきた。アメリカ独立戦争を終結させる1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国はこの領域を領有することになったが、マサチューセッツ州、コネチカット州、ニューヨーク州、およびバージニア州がこの地域への拡大・領有を主張することになり、その統治方法を取り決める必要があった。また、イギリス人がこの領域に残っており、その処遇問題は1812年の米英戦争まで持ち越されることになった。 開拓者達は以前からこの領域の開拓移民を嘱望していたが、イギリスの統治が無くなったことにより、この領域の領有権と入植を主張する州によって入植地は事実上開放された形になっていった。 1784年、トマス・ジェファーソンは、アパラチア山脈の西の全ての領土に対する各州の主張を取り下げさせ、その地域は合衆国の新しい州とすべきという提案を行った。ジェファーソンはこの領土をほぼ矩形の17の州を創出することを提案した。さらに新しい州の名前までも示唆した。チャーソンソー、シルバニア、アッセニシピア、ペトロポタミア、ポリポタミア、ペリシピア、サラトガ、ワシントン、ミシガニア、イリノイアなどである。この提案は採択されなかったが、3年後の北西部条例の元となる考え方を作った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北西部条例 (アメリカ)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Northwest Ordinance 」があります。 スポンサード リンク
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