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小倉 泰美(おぐら やすよし、1916年5月18日 - 1995年5月24日)は、日本の映画監督である〔''小倉泰美''、日本映画データベース、2012年5月31日閲覧。〕。氏家 彰(うじいえ あきら)、北見 一郎(きたみ いちろう)とも名乗った〔。 == 人物・来歴 == 1916年(大正5年)5月18日、徳島県徳島市に生まれる。 1939年、日本大学芸術学部を中退し、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社。1942年(昭和17年)4月16日に公開された山本弘之監督の『第五列の恐怖』では、「助監督」としてクレジットされている〔。日活の製作部門は、戦時統制のため同年1月10日には合併して大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)になっており、小倉は大映に残り、同年10月1日に公開された五所平之助監督の『新雪』には、「演出助手」(助監督)としてクレジットされている〔新雪 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年5月31日閲覧。〕。 1946年、大映を退社し、小倉プロダクションを設立。1949年、『忍術物語』で監督デビュー。 その後、今村貞雄、関孝二による製作会社ラジオ映画で、原千秋と共同で監督した『仔熊物語・野性のめざめ』が、1950年(昭和25年)7月29日に大映が配給して公開された記録がある〔。以降、教育映画を手がけるようになる。 1966年(昭和41年)、ヒロキ映画が製作した成人映画『女の秘密』を監督、同年2月に公開されている〔。1968年(昭和43年)、小倉は小倉プロダクションとして『性の悪態』を製作、「北見一郎」の名でこれを監督、同年12月に公開している〔。以降、ピンク映画については、「北見一郎」の名で監督している〔。1971年(昭和46年)を最後に、1977(昭和52年)までの間、ピンク映画を手がけた記録がないが、同年8月9日に公開された『獣色母娘』を大蔵映画で初めて監督し、以降、すべて、同社配給の作品を手がけるようになる〔。 1980年(昭和55年)4月21日に公開された『金髪トルコ 泡立ち昇天』以降数作、「北見組」として、大蔵映画から受注製作を行う〔。 1988年(昭和63年)、小倉が手がける教育映画の現場に、市原剛が助監督として参加し、師事するようになる〔市原剛 、日本映画監督協会、2012年5月31日閲覧。〕。 1995年5月24日、千葉県内の病院で心筋梗塞のため逝去〔''小倉泰美''、日本映画監督協会、2012年5月31日閲覧。〕〔『映画年鑑 1989』(時事映画通信社、1989年)には氏名・住所等が掲載されている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小倉泰美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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