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北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。従二位・勲一等旭日大綬章・男爵・医学博士。 私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)〔読売新聞1988年3月28日〕、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。 「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌や破傷風の治療法を発見し、医学の発展に貢献。門下生からはドンネル先生〔(ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意)〕との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎。別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人。明治製菓株式会社最高顧問の北里一郎は孫にあたる。 == 人物 == === 出生から === 肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。父惟保(これのぶ 1829 - 1902)は庄屋を務めた。温厚篤実、几帳面であった。母貞(てい 1829 - 1897)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁して後は庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎が指導者としての性格は母からであろう。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後母の実家に預けられ、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後久留島藩で武道を習いたいと申し出たが他藩であるので許可されなかった。実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た。1869年細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月廃止された。それで、熊本医学校に入学した。その教師マンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった。特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている。 1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。1883年(明治16年)に医学士となる。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている。卒業時の成績は26名中8位であった。その後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北里柴三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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