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南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。 ==歴史== ===分裂の前段階=== 天鳳5年(18年)、匈奴で呼都而尸道皐若鞮単于(在位:18年 - 46年)が即位すると、烏珠留若鞮単于(在位:前8年 – 13年)の子である比は、右薁鞬日逐王に任命され、南部国境地帯および烏桓の統治を任された。呼都而尸道皐若鞮単于が即位する際、その異母弟である右谷蠡王の伊屠知牙師は順位上、左賢王になるべきであったが、呼都而尸道皐若鞮単于が自分の子に位を譲りたいために伊屠知牙師を殺してしまった。このことを知った比は、「兄弟の上からいえば右谷蠡王が立つべきであり、子の上からいえば先代の子である自分が立つべきだ」と怨み言をこぼし、呼都而尸道皐若鞮単于に対して心中危惧を抱き、単于庭の集会にほとんど出席しなくなった。呼都而尸道皐若鞮単于は怪しんで2人の骨都侯を派遣し、比が統率する兵を監視統領させた。 建武22年(46年)、呼都而尸道皐若鞮単于が死去し、子の左賢王である烏達鞮侯が立ったが、まもなく死去したので、その弟の左賢王蒲奴が単于となった。比はまたもや単于になれず憤慨して恨んでいたところ、匈奴の国内は連年、旱(ひでり)と蝗(いなご)の被害が相次ぎ、草木がすべて枯れ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。単于蒲奴は漢がこの疲弊に乗じて攻めてくるかもしれないと恐れ、使者を漁陽まで派遣して和親を求めた。そこで後漢は中郎将の李茂を派遣して返答を伝えさせた。一方で、比はひそかに漢人の郭衡を派遣して匈奴の地図を奉じた。 建武23年(47年)、比は西河太守のもとに来て内附を申し出た。2人の骨都侯は比の真意を見破り、5月の龍祠(匈奴の国会)に参列した際、単于蒲奴に比が謀反を企んでいると伝えた。この時、比の弟の漸将王がこれを聞いていたので、すぐさま比に知らせると、比は支配下の南辺八部の4~5万人を招集し、両骨都侯が帰ってきたら殺そうと待ち構えた。両骨都侯は事前にこれを察知し、単于蒲奴にこのことを告げると単于蒲奴は1万騎を派遣して比を撃たせたが、比の軍勢が強盛だったので、引き返した。 〔『後漢書』南匈奴列伝〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「南匈奴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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