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司馬 虓(しばこう、270年 - 306年)は、中国西晋の皇族。字は武会。司馬懿の四弟である司馬馗(季達)の孫で、范陽王・司馬綏(子都)の子。司徒。范陽王。八王の乱の主要人物。 ==生涯== 279年、父の司馬綏の死後に范陽王を継いだ。 年少の頃から司馬睿、司馬模と共に一族内で高く評価されていた。散騎常侍から尚書になった。 302年12月、河間王・司馬顒の斉王司馬冏打倒に応じ、司馬冏敗亡後に許昌を鎮守し、劉琨を司馬とした。 303年後半の長沙王・司馬乂と成都王・司馬穎、司馬顒の紛争に際しては、司馬穎と共に司馬乂を攻撃した。 304年、7月に恵帝の皇太弟・司馬穎への親政軍が敗れ、8月更に司馬穎が王浚に敗れると司馬虓は司馬穎の廃太弟を上表した。11月に司馬顒は自分の本拠地の長安に恵帝を連れ去り予章王・司馬熾を新たな皇太弟に擁立して実権を握った。 305年、司馬顒を打倒するために、司馬模らと盟約して東海王・司馬越を盟主に挙兵した。序盤は敗北して、劉琨と共に河北に逃れたが、王浚の協力を受けて最終的に勝利した。 306年、司馬穎の本拠であった鄴を鎮守した、9月に司馬穎が捕縛され鄴に送られてきたが司馬虓は司馬穎に危害を加える意思はなかった。10月に急死した。37才。 子は無く、司馬模の子の司馬黎を嗣子としたが、311年、司馬黎は司馬模と共に長安で殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬コウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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