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吉田 孝行(よしだ たかゆき、1977年3月14日 - )は兵庫県川西市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW。 == 来歴 == 滝川第二高等学校時代には日本で開催されたFIFA U-17世界選手権(1993年)に中田英寿、宮本恒靖、松田直樹と共に出場。高等学校卒業後、横浜フリューゲルスに入団。 当時のシルバ監督が積極的に若手を起用していたこともあり、一年目から試合出場のチャンスを得て、フリューゲルス時代は95試合に出場し、21得点を挙げた。 1998年に横浜マリノスとの合併によるチーム消滅に伴い、横浜F・マリノスに移籍。 なお、フリューゲルス最後の試合となった1999年元日の天皇杯決勝で試合を決める得点を挙げている。 横浜F・マリノスでは、なかなか出番に恵まれず、2000年途中に大分トリニータに移籍。 大分ではキャプテンを任されJ1昇格に貢献。ここで現在のような中盤のフリースタイラーとしてのプレースタイルを確立する。 大分で中心選手として活躍していたが、古巣の横浜FMからオファーを受け2006年に完全移籍で6年ぶりに復帰。実際にプレーを見た岡田武史監督に「こんなに良い選手だとは思わなかった」と言わしめ、開幕戦では前年まで右サイドのレギュラーだった田中隼磨からスタメンの座を奪った。4月29日の広島戦では、復帰後初ゴールとなる決勝ゴールを後半ロスタイムに決めて勝利に貢献した。その後、田中の復調でベンチスタートに定着してしまったが、運動量と攻撃力を生かし、逆に後半守備を固めるためのスーパーサブとしてチームに貢献した。 2007年は、当初は出場機会は少なかったものの、4-3-3から4-1-3-2へのシステム変更に際し、山瀬幸宏と共にスタメンに定着。「戦術の理解度が高い」などと評価するなど、早野宏史監督も信頼を寄せていることが伺えた。 しかし、若返りを図るチームの方針を受け2007年シーズン最終戦が行なわれた12月1日にチームから正式に戦力外通告を受け退団。12月26日に地元であるヴィッセル神戸への加入が発表された。神戸では当初ほとんど途中出場だったが少ない時間でもきっちりと入れる決定力を買われ27節以降は先発として出場し活躍。2009年はシャドーストライカーとしてプレーする機会が多く、8月には3得点を挙げた。毎年秋頃の彼の活躍が神戸の戦績に関わっており、特に2010年はシーズン途中は起用されない時期もあったが、シーズン終盤には欠かせない存在になるまでに復活し、最終節は2得点を挙げ、残留に大きく貢献した。 2011年からキャプテンを務め、J1では自己最多9得点を挙げた。生年月日が元チームメイトの松田直樹と同一であり、親交も深かった。松田死去後初の試合であった第20節の浦和戦では2ゴールを挙げ、喪章を掲げ松田の背番号3を示すポーズを取った〔J1:第20節 浦和 vs 神戸 J`sGoal 2011年8月6日〕。現役最後の試合では、得点を決めた直後に松田の現役時代のトレードマークであった背番号3の入ったヘアバンドを取出し、ゴールを喜んだ〔2013 Jリーグ ディビジョン2 第42節 ヴィッセル神戸vsロアッソ熊本 ヴィッセル神戸公式サイト〕。 2012年は故障続きでほとんど目立った活躍をすることができず、シーズン終了後には引退することも考えていたと言うが、神戸のJ2降格やクラブからの契約延長の意向もあり、2013年も神戸でプレーすることを決意した。2013年10月24日にチームのホームページにて今季限りでの現役引退を発表した。11月24日、ホーム最終戦のロアッソ熊本戦では現役最後となる3点目を決めた。シーズン後、ヴィッセル神戸アンバサダーに就任した〔吉田孝行氏 ヴィッセル神戸アンバサダー就任のお知らせ ヴィッセル神戸公式サイト〕。2014年末、Jリーグ功労選手賞を受賞。 2015年、神戸のコーチに就任。 2016年、ヘッドコーチへ昇格。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田孝行」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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