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吉田 隆長(よしだ たかなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。吉田経長の次男。母は葉室定嗣の娘で、吉田定房・冬方とは同母の兄弟である。 == 生涯 == 皇太子尊治親王の東宮亮を務め、親王が後醍醐天皇として践祚した文保2年(1318年)2月26日に蔵人頭に抜擢される。同年8月24日には参議に昇進する。元応2年(1320年)3月24日には権中納言に任ぜられ、左兵衛督・検非違使別当を兼ねるが、日吉大社の神人を禁獄したことに延暦寺からの抗議を受け、9月10日に阿波権守に左遷される。ただし、同年12月には許されて帰京している。元亨元年(1321年)7月26日に定房が権大納言を辞すると、同日に民部卿に任ぜられたが同3年6月16日にこれを辞している。有職故実と兄・定房の言行を記した『吉口伝』(『夕郎故実』)を編纂したが、正中2年(1325年)6月23日に官を去って出家、覚源と号した。 南北朝分立後、兄の猶子となっていた三男・藤長とともに京都に残る。貞和4年/正平3年(1348年)、藤長が家号を「甘露寺」と定めた際に、南朝に仕えていた定房の子宗房(後の南朝右大臣)と嫡流の地位を巡って争ったことが『園太暦』に見える。 貞和6年/正平5年(1350年)、余命短い事を悟った隆長は『唯識論』を書写、その中で現在(京都の)朝廷に仕えている一門の者が藤長しかいないことを嘆き、家門の存続を願っている。翌月74歳で死去した(『園太暦』)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田隆長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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