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呉 明捷(ご めいしょう、1911年 - 1983年)は、台湾苗栗県出身の野球選手(投手、内野手)。右投げ右打ち。その投球は「麒麟児」「怪腕」と評された。 == 来歴・人物 == 1931年の第17回全国中等学校優勝野球大会で台南州立嘉義農林学校のエースで4番・主将の、文字通りの大黒柱として出場、全試合を一人で投げ抜き、同校を初出場ながら準優勝に導いた。 同大会の台湾予選におけるノーヒットノーラン(対台中一中戦)および甲子園大会における完封(対神奈川商工戦)は、それぞれ台湾野球史上初の快挙である。 1933年に早稲田大学に進学〔早稲田に縁の深い映画「KANO~海の向こうの甲子園~」 多摩稲門会のページ(2015年2月9日参照)〕 、早大では一塁手に転向して打者として活躍、1936年には東京六大学野球での当時の通算ホームラン数のタイ記録となる7本を記録〔呉以前には1930年に慶大の宮武三郎がマークしたのみ。なおこの記録は1957年に長嶋茂雄に更新(8本)されるまで約20年間破られなかった。〕同年秋のシーズンでは打率0.333で首位打者を獲得している〔東京六大学野球リーグ戦・首位打者 東京六大学野球連盟のページ(2015年2月7日閲覧)〕。 1938年に早大を卒業した後はプロ野球には進まず、台湾籍のまま東京の台湾拓殖に入社して社会人野球選手となった。 1945年に終戦によって台湾拓殖が整理されると同時に野球選手を引退、それ以降も台湾には戻らず、日本で職に就いて暮した。 1983年病気により、日本にて死去。享年72歳。生涯日本に帰化することなく、台湾国籍のままだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉明捷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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