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和歌嶌 三郎(わかしま さぶろう、1907年9月22日 - 1961年3月4日)は、和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)出身の元大相撲力士。本名は松井 三郎(まつい さぶろう)。 「和歌嶋」と表記する文献が多いが、番付上では「和歌嶌」の表記である。 == 来歴 == 1907年9月22日に和歌山県日高郡川辺町(現:和歌山県日高郡日高川町)で生まれる。和歌山県立田辺中学校に通っていたが、相撲の強さを同郷の高ノ山三郎に見出されたため、3年生で中途退学して入間川部屋へ入門、間もなく出羽海部屋へ転属した。四股名は郷里・和歌山県に因んで「和歌嶌」とした。 1923年1月場所で初土俵を踏むと、スピード出世で1928年5月場所で新十両昇進、その十両も僅か2場所で通過し、1929年1月場所で新入幕を果たした。入幕から僅か3年後の1932年1月6日に春秋園事件が勃発すると日本相撲協会を一時脱退したが、1933年1月場所において幕内格別席で復帰した。前捌きが上手く相撲勘が冴え、鋭い立ち合いから強い突っ張りを見せた後で、左右どちらでも自由に組める四つの形から上手投げや、深く足を入れて相手を捻り倒すような独特の内掛けで攻める天才肌の取り口で、土俵態度もよく人気があった。しかし、「稽古なんておかしくて…」と言った伝説があるほどの大の稽古嫌いと無欲な性格で知られ、三役は小結1場所に終わった。稽古嫌いでありながら通算勝率が5割を超えるのは関脇力士では非常に稀で、実力は高かったことから「天才児」と称された。 1939年5月場所を最後に現役を引退し、年寄・濱風(のち関ノ戸)を襲名した。年寄としては明治大学・陸軍士官学校で相撲部の師範や勝負検査役を担当、妻には相撲茶屋「和歌島」(相撲案内所7番、現:國技館サービス株式会社7号)を経営させた。1961年3月4日に死去、。和歌嶌の養女は福の花孝一の元へ嫁ぎ、福の花は松井姓となったほか、養女は妻の後を継いで相撲茶屋「和歌島」を経営している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「和歌嶌三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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