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土井ヶ浜遺跡(どいがはまいせき)は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。「戦士の墓」あるいは「英雄の墓」などと呼ばれる。 土井ヶ浜遺跡の発見は、1930年まで遡る。1930年晩秋夕刻、神玉小学校教諭河野英男により、砂丘中に6体の人骨が入った石棺が露出しているのが確認された。翌1931年3月旧山口高等学校(山口大学文理学部)小川五郎・旧京都帝国大学(京都大学)三宅宗悦らにより人骨収集と学会報告が行われ、「土井ヶ浜遺跡」と命名された。 戦後、神玉中学校教諭衛藤寿一が砂丘で収集した人骨や土器の破片を九州大学医学部に届けた事を契機に、1953年九州大学医学部教授金関丈夫を中心とし、日本学術会議・日本考古学協会の協力の下で本格的な発掘調査が5年間に渡って行われた。その成果により、1962年に砂丘の一部が国の史跡「史跡土井ヶ浜遺跡」に指定された。現在では遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が造られている。 == 概要 == 土井ヶ浜遺跡は響灘の海岸から300メートルほど入ったところにある。海岸沿いに砂丘があり、それに直交するようにもう一つの砂丘がある。この海岸と直角にある砂丘を利用して墓地がある。東西約120メートル、南北約40メートルほどの広さである。 これまでに延べ19回の学術調査が行われ300体を超える弥生人の骨が見つかっている。砂の中に混じっている貝殻の石灰分が骨のカルシウム分の保存に適し、人骨の保存状態が良好である。出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側からやってきた渡来人の墓地として注目されてきた。 埋葬の様子は、砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なものが大半である。他に箱式石棺や石囲い、四隅や頭辺・足元などに配石するなどである。簡単な墓標を設けているものなどが見られる。弥生の被葬者は、頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢をしている。本遺跡の被葬者も共通している。抜歯も多く見られ、体を切断された遺体もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土井ヶ浜遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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