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土佐ノ海 敏生(とさのうみ としお、本名:山本 敏生(やまもと としお)、1972年2月16日 - )は、高知県安芸市出身で伊勢ノ海部屋に所属した元大相撲力士。現在は年寄・立川。得意手は突き、押し、右四つ、上手投げ。最高位は東関脇(1997年7月場所・同年9月場所、2004年1月場所)。安芸市立安芸中学校、高知高等学校、同志社大学商学部卒業。身長186cm、体重162kg、趣味は映画鑑賞、愛称は「トシオ」、好物はケーキ、星座はみずがめ座、血液型はB型、干支は子年。 == 来歴 == 漁師の長男に生まれ、小学校の低学年の時は野球少年だったが、高学年より相撲に転向する。野球部で球拾いばかりだった彼は、相撲のコーチから「大きい体をしているなぁ。相撲ならすぐに試合に出られるぞ。」と言われ、その翌日には廻しをつけていたと言う。中学、高校と徐々に頭角をあらわし、同志社大学相撲部時代は1年生からレギュラーとなり、1992年から、西日本体重別115キロ以上級、全日本体重別115キロ以上級で2年連続で優勝。同年、大学実業団対抗でも優勝。大学では歴代6位の通算15個のタイトルを獲得し、「東の尾曽(大関・武双山)、西の山本(土佐ノ海)」と並び称され、高校時代、大学時代を通じて良きライバルであった。真面目で温厚な人柄だが、学生時代には主審の判定への不服から、タオルを投げるパフォーマンスを演じたこともある。また、本来は押し相撲であるが、学生時代は、格下相手には、とりこぼしを防ぐため、安全策で四つ相撲で勝負することもあった。 学生時代には数々のタイトルを獲得し、鳴り物入りで、名門部屋である伊勢ノ海部屋に入門し、1994年3月場所、幕下付出で初土俵。四股名は当初から「土佐ノ海」で、これは「土佐の太平洋のように、大きな存在となれ。」という願いをこめて、師匠の伊勢ノ海親方が命名したものである。プロ入り当時から「将来の横綱」と注目され、期待に違わず、トントン拍子に出世。負け越し知らずで1995年7月場所にいきなり西前頭7枚目で新入幕(5月場所に西十両筆頭で14勝1敗で優勝)。新入幕での前頭7枚目という地位は、戦後2番目の大躍進である。日本相撲協会の期待の表れから、新入幕の初日にいきなり大関若乃花、2日目は、横綱貴乃花と対戦〔自身より上位に二子山が7人集中していたことも関係している。〕(結果は2番とも土佐ノ海の負け)した。新入幕の場所で横綱と対戦した力士は、戦後では土佐ノ海を含め、過去4人だけである。この場所では7勝8敗に終わり、初土俵以来、初の負け越しとなった。 しかし、翌9月場所では、大関貴ノ浪を破るなどの活躍で11勝4敗の成績を修め、入幕2場所目にして、敢闘賞を受賞した。西前頭筆頭まで躍進し、本格的な幕内上位進出となった翌11月場所では曙、貴乃花の両横綱を立て続けに破るなど9勝をあげ、殊勲賞と技能賞を受賞。翌場所の1996年1月場所に新小結となった。その後は1997年5月場所に新関脇となり、一躍、大関候補に名乗りを上げる。さらに、1998年11月場所から翌1999年5月場所にかけては4場所連続、合計6個の金星を獲得した。これは史上初のことであり、現在も記録保持者である。この間の1998年11月場所は休場明けの場所で、幕内中位に低迷していたとはいえ、12勝3敗の成績で、この場所を制した琴錦と共に平幕同士のデッドヒートを繰り広げた。そして、翌年の1999年7月場所には三役に復帰し、以後、2000年7月場所まで7場所連続で三役に在位し、二度、二桁勝利をあげ、更に上を期待されたが、1999年11月場所から2000年5月場所にかけて、三役での連続勝ち越しを続けるも、その間一度も関脇に復帰できず、この番付運の悪さゆえに、5場所連続での小結在位を記録(麒麟児…後の大麒麟、琴光喜と共に歴代1位)した。2002年7月場所は西小結の地位で10勝5敗の成績を残し、「千秋楽で自身の勝敗に関わらず千代大海の優勝が決定する」という他力型の条件を満たす形で敢闘賞も受賞した〔三賞は他の力士の成績との兼ね合いで受賞が決定するという事情がこのダブル受賞に関係した。〕。 その後2005年前半辺りまでは幕内上位・三役に定着し続けたが、通算獲得金星が示すとおり上位に強いものの、格下相手への取りこぼしも多いなど安定感に欠け、結局大関昇進は果たせなかった。2003年11月場所では横綱武蔵丸に引退の引導を渡す通算11個目の金星をあげるなどの活躍で二桁勝利を記録し、翌2004年1月場所を東関脇で迎えるも、この場所から3場所連続で負け越し、7月場所には自身初めて前頭2桁台まで番付を落としてしまった。しかしその場所では11番勝って格の違いを見せつけた。同年12月25日には、年寄名跡・立川を取得した。 その後少しずつ番付を戻し、2005年3月場所には2大関を破るなどの活躍で、10勝5敗の好成績をあげ、5月場所は関脇に復帰した。33歳での関脇復帰は、平成に入って初めての記録であり、33歳3ヶ月の関脇は歴代10位の年長記録である。だがその後は一転して負けがこみ、西関脇だった5月場所から2006年1月場所にかけて5場所連続負け越した。2005年は年間37勝53敗と、その年の幕内力士の中で年間最多敗となってしまう。特に2006年1月場所では東前頭14枚目で5勝10敗と負け越してしまい、翌3月場所では11年振りに十両に陥落した。関脇復帰から僅か5場所での陥落であり、衰えが顕著になっていた。かつての実績や年齢から引退の可能性を指摘する向きもあったが、1月場所千秋楽を終えた時点で、3月場所に十両に落ちても現役を続行することを明言した。 翌3月場所では西十両筆頭で9勝6敗と勝ち越して、5月場所での返り入幕を果たした。その5月場所では、2005年3月場所以来7場所ぶりの幕内での勝ち越しを決めた。以後は幕内中、下位と十両の往復を繰り返す状況が続き、2008年9月場所までに4度の十両陥落を経験したが、いずれも翌場所は勝ち越し、1場所で幕内に復帰した。しかし、2009年3月場所に東前頭15枚目で4勝11敗と大敗し、翌5場所に五度目の十両陥落を経験してからは十両が定位置となっていった。 2010年7月場所で8勝7敗と勝ち越し、翌9月場所で9場所ぶりに5度目の再入幕を果たす。この場所は西十両7枚目ながらも大相撲野球賭博問題による幕内からの大量降格により異例の番付アップとなった。38歳6ヶ月での幕内復帰は寺尾の38歳0ヶ月を超え、昭和以降では歴代1位となる最年長記録であった。だが、その場所では西前頭16枚目で2勝13敗と大きく負け越したため翌11月場所では十両に陥落した。続く2010年11月場所では東十両8枚目で4勝11敗と大きく負け越し、次場所での幕下陥落が確定的となった。そこで、場所後の2010年12月15日に、体力の限界を理由に現役引退を表明した。引退相撲(断髪式)は、当初は2011年5月場所後に予定していたが、大相撲八百長問題の煽りを受けて延期せざるを得ず、2012年2月4日に開催した〔土佐ノ海、八百長問題が影響「やっと断髪式」 : 大相撲 : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2012年2月5日閲覧〕。通算金星11個は歴代4位、三賞受賞13回は同7位タイの記録である。 現役引退後は年寄・立川を襲名して、伊勢ノ海部屋で後進の指導に当たっている。相撲協会の業務では、引退して間もない時期に発生した八百長問題の再発防止策を協議するための大相撲新生委員会に新米親方ながら所属し、その後は巡業部を経て2014年からは主任の立場ながら審判部を務めている。〔主任の地位で審判部を務めるケースは東関、敷島を含めて過去3例のみ。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土佐ノ海敏生」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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