|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 土 : [つち] 【名詞】 1. earth 2. soil ・ 土方 : [どかた] 【名詞】 1. construction laborer 2. construction labourer 3. navvy ・ 方 : [ほう] 1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point
土方 久元(ひじかた ひさもと、天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日))は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。 == 生涯 == ===志士としての活躍=== 天保4年(1833年)、土佐藩上士・土方久用(200石)の長男として生まれる。安政4年(1857年)、江戸へ遊学して儒者・大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加。文久3年(1863年)以後は藩命により京都へ上り、尊攘派の牙城であった長州藩はじめ諸藩の勤王の志士と交流する。やがて過激派公家・三条実美の知遇を得、徴士学習院出仕を命ぜられたが、同年の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や澤宣嘉らと共に長州へ下った。 幕府による第一次長州征討の際には、三条らと共に九州(福岡藩)へ渡海し、大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。馬関における木戸孝允と西郷隆盛の会談を周旋する(ただし、連絡の行き違いにより未遂に終わる)。 七卿落ちから明治元年(1868年)にいたるまでの土方の活動は、自らの日記『回天実紀』によって詳しく記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「土方久元」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hijikata Hisamoto 」があります。 スポンサード リンク
|