|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle ・ 柵 : [さく] 【名詞】 1. fence 2. paling
城柵(じょうさく)は、7世紀から11世紀までの古代日本において大和朝廷(ヤマト政権、中央政権)が築いた軍事的防御施設である。 現代の歴史学では特に北東と南西の辺境に置かれた政治行政機能を併せ持つものに限って言うことが多い。個々の城柵は、「多賀柵」など「柵」の字を付ける場合と、「多賀城」など「城」の字を付ける場合があり、城も柵も「き」と呼んでいた。北東は蝦夷、南西は隼人に対する備えとして置かれ〔699年(文武天皇3)12月には、のちの日向・大隅国府に近接した地点に三野(日向国児湯郡三納= 西都市三納か)・稲積(大隅国桑原郡稲積郷= 霧島市か)の2城が、隼人に対する軍事的な拠点として造営された。〕、対朝鮮・中国の城に比べると防備が弱く、行政施設としての性格が強いのが特徴である。 なお、前九年の役、後三年の役で安倍氏や清原氏が軍事拠点として設置した柵は成り立ちや性格が異なるので、一般的にはここで言う「城柵」には含めない。 == 日本海側の城柵 == 647年(大化3年)、渟足柵が現在の新潟市沼垂付近に設置されたのが記録に残る初見である。翌、648年(大化4年)には磐舟柵が現在の村上市岩船付近に設置された。 また、658年(斉明天皇4年)には都岐沙羅柵という名が『日本書紀』に記されているが、いつどこに設置されたのかは全く不明である。 さらに、『続日本紀』の和銅2年7月1日(709年8月10日)の条に出羽柵に武器を運搬したとの記載があることから、その時点には出羽柵が存在したことがわかる。出羽柵は出羽郡(現・庄内地方)に設置されたと思われるが、詳しい位置については不明である。また、708年(和銅元年)には越後国に出羽郡が設けられていることから、この前後の設置であろうと推定されている。712年(和銅5年)、出羽郡は出羽国に昇格し、出羽柵が国府とされた。その後、出羽柵は734年2月4日(天平5年12月26日)に現・秋田市相当地域に移設され、秋田城と改名されたと見られる。しかし、蝦夷の居住地域の真ん中に設置されたことから、蝦夷との抗争のなかでたびたび攻撃を受けた。このため、804年(延暦23年)に国府を「河辺府」に移設したとされる。ただし、秋田城は放棄されず、軍事機能を強化して出羽介が駐在して指揮した。このことから、のちに出羽介は「秋田城介」と呼ばれるようになる。また、国府の移設場所には様々な説があるが、最終的には現・酒田市相当地域にある城輪柵に移設されたと見られている。また、759年(天平宝字3年)には雄勝郡に雄勝城が設置されている。雄勝城の詳細な位置は不明で、払田柵跡をそれに比定する意見もあるが、払田柵跡は記録に現れていない城柵であるという意見が有力である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「城柵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|