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堀田 正英(ほった まさひで)は、江戸時代前期の大名。常陸北条藩主。江戸幕府若年寄。 == 生涯 == 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれる。寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となる。慶安4年(1651年)に父が家光に殉死すると、家督は長兄の正信が継いだが、このとき父の遺領から常陸国内で5,000石を分与された。 万治2年(1659年)に中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられる。寛文11年(1671年)に書院番頭、延宝4年(1676年)に大番頭と要職を歴任する。延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられ、3,000石を加増された。天和元年(1681年)に若年寄に任じられ、天和2年(1682年)2月29日に5,000石を加増されて合計1万3,000石の大名として諸侯に列し、常陸北条藩主となった。 貞享2年(1685年)に奏者番に任じられる。貞享5年(1688年)7月3日に死去。享年51。死後、生前に幕府に提出されていた嘆願状により、遺領の1万3,000石のうち、3,000石は次男の正矩が、2,000石は三男の正章が継いだ。しかし、長男の正親については何も記されていなかったため、残り8,000石は幕府により公収され、ここに常陸北条藩は廃藩となったのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「堀田正英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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