|
堃岫(こんしゅう)は、清末民初の政治家。満州族。清朝最後の綏遠城将軍にして、中華民国の初代綏遠将軍。字は子岩、紫岩。 == 事跡 == かつては理藩部左侍郎をつとめていた。1910年(宣統2年)9月(旧暦)、ウリヤスタイ定辺左副将軍から、綏遠城将軍に任命された(正式着任は、翌年3月(旧暦))。 辛亥革命勃発後の1911年(宣統3年)、閻錫山らの山西革命軍が綏遠方面へ進軍を開始した。堃岫は、大同鎮総兵陳希義に防戦を指示すると同時に、清朝への救援派兵を要求した。しかし、すでに軍事力を喪失していた袁世凱は、この救援要請を無視した。 それでも綏遠・帰化(いわゆる「帰綏」。現在のフフホト市)の両城を守っていた堃岫は、精鋭部隊であるトゥメト旗陸軍により山西革命軍を迎撃する。両軍ともに損害が大きく、山西革命軍はこれ以上の進軍を停止して山西へ引き返した。また、帰綏や包頭の革命派については、堃岫の配下である五原同知・樊恩慶が、謀略によりこれを蜂起前に壊滅させた。 民国が成立した後も、堃岫は引き続き綏遠将軍の地位にあった。1912年(民国元年)10月まで、その任にあった。 以後、堃岫の行方は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コン岫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|