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増健 亘志(ますつよし のぶゆき、1974年1月22日 - )は、高知県高知市出身で三保ヶ関部屋所属の元大相撲力士。本名は柳川信行〔雑誌「NHK大相撲中継」の「全相撲人名鑑」では、1999年は「柳川」、2004年は「栁川」となっている。番付上は一貫して「柳川」と表記されている。〕。最高位は西十両6枚目(2003年9月場所)。得意手は左四つ、寄り。身長179cm、体重190kg、愛称は本名から「ノブ」、趣味はマンガ読み、好物は焼肉、水瓶座、血液型B型、干支は寅年。 == 来歴 == 相撲は小学校4年から始め、それまでは野球をやっていた。高知市立南海中学校3年の時に中学生横綱となり、地元高知工業高校から相撲の名門日本大学へ進学。1995年、4年時に学生横綱のタイトルを獲得し、1996年1月場所幕下付出(60枚目格)で初土俵。同期に同じく幕下付出の海鵬、栃乃洋、燁司ら。 入門時の周囲の期待は大きかったが、下半身の故障や受け身になりやすい取り口もあり、2004年5月場所以降は幕下での低迷が続いた。さらに現役晩年は体重の増加に伴い下半身の脆さが目立つようになり、幕下中位以下に低迷した。年齢を考慮すると、関取復帰は極めて困難な状況であった。皇司の引退に伴い、2009年5月場所より日本大学出身者では海鵬と並び現役最古参となり、海鵬が引退した2010年7月場所8日目から引退までは現役最年長かつ最古参の力士となっていた。2009年頃からは相手を腹の上に乗せて吊るといった相撲も見られた。 「増健」(ますつよし)の四股名は、「膝が悪いので怪我をしないように」と師匠の三保ヶ関親方が命名した。〔同じような思いを込められ先々代九重から「末永く現役を続けられるように」、転じて永遠(千代)に(力士として)不死(富士)であれと願いを反映された四股名を与えられた力士がおり、その力士こそが千代の富士である。千代の富士は最終的に優勝31回、幕内53連勝、通算1045勝などの大記録を数々達成した。〕2004年1月場所を最後に幕下に低迷してからは、元の「柳川」に戻そうと考え、周囲も望んでいたため、亡くなった父の喪が明けたのを機に、2005年11月場所に改名した。この時、日本大学相撲部の後輩で普段より親交の深い(後述)濱錦も四股名を本名(高濱)に戻した(2009年7月場所より再び濱錦へ)。 2011年1月場所をもって引退。取組後「幕内に上がれなかったのは残念だけど、やり切った感はある」とコメントを残した。同年2月12日、両国国技館内で断髪式が行われた。大関把瑠都や部屋の後援会関係者ら60名がはさみを入れ、三保ケ関親方が止めばさみを入れた〔元十両の柳川が断髪式「やり切った」/大相撲 SANSPO.COM サンケイスポーツ 2011年2月18日閲覧〕。おりからの大相撲八百長問題の影響で角界が各種行事を自粛している最中の開催のため、師匠の歌の披露などのイベントは行われなかった。3月1日から東京都内の会社に勤務した。元十両・玉光国の証言によると、その後2012年1月一杯で東京を去り、故郷の高知県へ帰郷したとのことである。〔相撲人飲み会の話 元玉光国(玉ノ国)の毎日楽しくGOーGOーブログ(2012年1月14日に焼肉「魁道」において相撲人同士で打ち上げを行っていた際の様子) 2012-01-15 10:38:46 〕同年9月16日、南海少年相撲クラブ出身者が主催した相撲大会「武田杯」が若宮八幡宮参道脇の土俵で開催された際に消息が明らかとなっており、OBとして柳川自身も取組に参加した。〔長浜に相撲熱取り戻せ 高知ニュース 2012年09月17日08時23分〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「増健亘志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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