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壁村 耐三(かべむら たいぞう、1934年 - 1998年12月8日)は、日本の漫画編集者。『週刊少年チャンピオン』の黄金時代を築いた名物編集長としても知られる。 == 生涯 == 岡山県出身。岡山県立倉敷工業高等学校中退後、同じく岡山県出身の秋田書店社長の秋田貞夫から同郷のよしみで誘われ〔本橋信宏「ぼくらのベストセラー 『冒険王』と『少年チャンピオン』」『新潮45』2013年1月号、pp.196-199〕、1958年に秋田書店に入社〔清水京武「『週刊少年チャンピオン』突然の黄金期! 元編集長壁村耐三氏インタビュー」『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』宝島社、1996年、pp.122-129〕。編集者になるまで漫画を読んだことがなかったといわれる〔。入社してまもなく『まんが王』編集部に配属、「ぼくのそんごくう」を連載の手塚治虫を担当する。『まんが王』には10年以上在籍し、休刊時には最後の編集長を務めた〔。 『まんが王』の兄弟誌の『冒険王』の編集長に就任、「仮面ライダー」特集で部数を伸ばすことに成功した〔。 1972年4月10日、『週刊少年チャンピオン』2代目編集長に就任。当時の『チャンピオン』は部数40万部を下回り、同じく週刊少年漫画誌の『週刊少年ジャンプ』や『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』に後れをとっていた。壁村は就任早々、横山光輝の「バビル2世」以外の連載を一新し、水島新司の「ドカベン」を例外として原則読み切り形式とする改革を行った。クライマックスを各話に要求し、その上で人気が出たものを連載継続とするという方針をとった。編集長在任中には、「ドカベン」や「マカロニほうれん荘」、「750ライダー」、「がきデカ」、「ブラック・ジャック」といったヒット作を数多く輩出している。「がきデカ」に関しては秋田書店の幹部からひんしゅくを買っていた連載を強行させたりもしている〔。 壁村が編集長に就任してからの『チャンピオン』は着実に部数を伸ばし、1974年9月9日号に100万部を突破〔読売新聞2009年4月30日付 〕。1977年12月には200万部を突破し、『サンデー』や『マガジン』、『ジャンプ』を追い越し、漫画雑誌発行部数トップとなった〔読売新聞1978年1月3日付〕(ただし発行部数は自称)。 その後は体調を崩し、1981年に編集長を辞任。壁村退任後、『チャンピオン』は人気作からの引き継ぎがうまくいかず部数を大幅に減らしたため、1985年、編集長に復帰。役員待遇でありながら編集部で指揮を取っていた。この時には立原あゆみの「本気!」の連載を立ち上げている。1988年3月からは新しく創刊した『ヤングチャンピオン』の編集長も兼任した。1989年、『チャンピオン』編集長を退任。元来より大酒飲み、ヘビースモーカーだったことが祟って体調を崩し、1993年頃より入退院を繰り返した。 1998年12月8日、膵臓癌により64歳で死去〔。 編集長時代の部下として、幻冬舎コミックス社長の伊藤嘉彦、現・『チャンピオン』編集長の沢考史や、『コミックビーム』編集長の奥村勝彦らがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「壁村耐三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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