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大内 弘世(おおうち ひろよ)は、南北朝時代の武将、守護大名。周防・長門・石見守護。多々良姓大内氏の第9代当主。大内弘幸の子。義弘、満弘、盛見、弘茂らの父。 == 生涯 == 大内氏は北朝を支持する室町幕府に従うが、幕府内の対立から観応の擾乱と呼ばれる内乱が勃発。足利尊氏が弟の足利直義に対抗するために南朝に降伏して正平一統となる。大内氏は南朝との和睦が取り消されても直義と養子の足利直冬に属し、弘世は南朝の武将として満良親王を奉じて勢力を拡大。正平5年/観応元年(1350年)、弘世は父の弘幸と共に幕府方の周防守護職である鷲頭氏討伐に乗り出し、東大寺領吉敷郡椹野荘に乱入、南朝に帰順の意志を示した。翌年の7月に南朝に帰順。弘世は南朝から周防守護職に任じられ、宿願を果たした。 父は鷲頭氏討伐を成し得ぬまま正平7年/観応3年(1352年)に死去する。家督を継いだ弘世は周防平定を急ぐ。その結果、正平8年/文和2年(1353年)にまでには鷲頭氏と講和して鷲頭一派を傘下に収めた〔藤井、2013年、P15・18-19〕。 大内弘世が周防平定を急いだ背景として、正平7年/観応3年改め文和元年(1352年)に足利直冬が大宰府で一色範氏に敗れて長門国に撤退したこと、その一色範氏も南朝方の菊地氏には敗れ、長門守護であった厚東氏は一色範氏を支援する守護(当主)厚東義武と足利直冬を支援する一族の厚東武藤に分裂しており、大内氏を取り巻く状況が急変したことがあったと考えられる〔藤井、2013年、P15・18-19〕。 正平10年/文和4年(1355年)頃から長門に進出。長門守護であった厚東氏との戦いに突入する。厚東義武は抵抗するも遂には正平13年/延文3年(1358年)正月、霜降城は落城、6月には長府を陥落させて長門国を平定した。その後も厚東義武の抵抗が続いたものの、正平14年/延文4年(1359年)に厚東氏最後の拠点であった四王寺城が落城して義武は長門を捨て、故地である豊前企救郡に逃亡した。弘世は長門守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。厚東義武は長門復帰を目指すが、復帰には至らなかった。 厚東氏没落の背景としては、前述の通り一族が分裂してしまったこと、当主の相次ぐ死去による権威の衰退、一色氏への支援の軍事支援によって疲弊したことが挙げられる。また、厚東氏の疲弊は大内氏に対する備え不足だけではなく、内政にも影響して厚東氏に不満を持つ長門の人々が大内氏に帰参したと考えられている。例えば、長門国の一宮である住吉神社と二宮である忌宮神社は厚東氏による庇護が受けられなかった(特に後者は室町幕府から厚東義武に社殿の再建を命じられていたにも関わらず実施されなかった)ため、両社は大内氏が攻め込むと直ちに内応し、弘世も社領を保護するとともに、長門の国内安定後には直ちに両社の再建に乗り出し、一宮は建徳元年/応安3年(1370年)、二宮は正平22年/貞治6年(1367年)に社殿の再建を完了させている。だが、弘世が盟主と頼んだ足利直冬は上洛を目指すべく本拠を石見国に移し、次第に両者の関係は希薄化していった〔藤井、2013年、P20-25・28-31〕。 その後、2代将軍足利義詮は斯波高経の献策により、防長両国の守護職を認めることを条件として弘世に北朝への復帰を促し、正平17年/貞治元年(1363年)9月に弘世は足利直冬と南朝に見切りをつけて北朝に帰順した〔藤井、2013年、P25〕。それにひき続いて正平21年/貞治5年(1366年)、足利直冬率いる石見の南朝勢力を駆逐した戦功により石見守護にも任じられる。 ところが、北朝・室町幕府への帰服を一時的なものと捉える弘世と室町幕府の安定化をみてその体制下での生き残りを図ろうとする嫡男・義弘の間で対立が生じるようになる。建徳2年/応安4年(1371年)からは九州探題となっていた今川貞世を支援して九州に進出。大宰府攻略や南朝勢力の攻略に戦功を挙げたが、翌年8月には帰国してしまう。その後、文中3年/応安7年(1374年)7月に安芸国人毛利元春を攻め、天授2年/永和2年(1376年)4月にも再度侵攻した、これは元春が今川貞世の命を受けて九州に出陣中の事件であった。これを知った3代将軍足利義満や管領細川頼之から咎められて石見守護職を剥奪されたため、撤兵した〔藤井、2013年、P16・34-35〕。ところが、天授5年/康暦元年(1379年)になって、弘世と異なって今川貞世の傘下として各地を転戦していた義弘に石見守護職が与えられ、弘世と義弘の力関係が逆転することになる〔藤井、2013年、P34-35・64〕。 天授6年/康暦2年(1380年)に弘世は死去しているが、その没日は11月15日(一説には10月15日)で嫡男・義弘と弟である満弘が家督を巡って内戦(康暦内戦)をしている中の死であった。しかも、当時の大内氏は義弘が実権を握りつつあったにも関わらず、鷲頭氏をはじめ多くの重臣が満弘陣営に参加している。そして、内戦中最大の激戦は安芸・石見方面での満弘本隊との戦いではなく、別働隊が籠る長府の下山城の攻防戦(同年10月5日陥落)であった。藤井崇はこの経緯から、この戦いを義弘と満弘の戦いではなく、義弘と彼を廃して満弘を後継者にしようとした弘世の戦いとし、下山城の籠城に弘世が関与している可能性や弘世の死に義弘が関与している可能性があるとしている〔藤井、2013年、P55-60・64-65〕。 弘世は正平15年/延文5年(1360年)に本拠を大内館から山口へ移転。京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いた〔『山口市史』史料編・大内文化(山口市、2010年)附図「山口古図」。〕。また、京から迎えた姫君を慰めようと、一の坂川を京都の鴨川に見立てて、宇治のゲンジボタルを取り寄せ、放したと伝えられている。しかし、近年の考古学的調査によれば、山口の都市化は少なくとも弘世期までは遡らないず〔古賀信幸 「守護大名大内(多々良)氏の居城跡と城下山口ー大内氏館跡と町並遺跡の発掘からー」(金子拓男 前川要編 『守護所から戦国城下へー地方政治都市論の試みー』 名著出版、1994年10月、ISBN 4-626-01498-4)。〕、未だに大内が本拠地だったと考えられる〔平瀬直樹 「南北朝期の大内氏の本拠地」『日本歴史』第810号、2015年11月号、吉川弘文館、pp.13-27。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大内弘世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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