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『大東地誌』は朝鮮後期に金正浩が著した地理書。30巻15冊に分けられており、この中で平安図編一部と山水考及び辺方編などは欠本している。現在、高麗大学校付属図書館に所蔵されている『大東地誌』は金正浩の肉筆本である。しかし、『大東地誌』の平安道編は金正浩の直筆ではなく、誰かが後に清書し添付した。 == 編纂時期 == 『大東地誌』は1862年から1866年までに編纂されたと推定される。 『大東地誌』の編纂時期はこれまで1864年と誤って伝えられていた。『大東地誌』の巻頭に「新羅始祖元年甲子から本朝哲宗14年癸亥まではおおよそ1920年であり、32甲子に該当する (起新羅始祖元年甲子 止本朝哲宗 十四年癸亥 凡一千九百二十年三十二甲子)」という記事と『大東地誌』巻1経にも国朝紀年哲宗に関する記事の次に載せられた「主上殿下元年甲子」という内容を根拠にそう判断したものである。 しかし、最近の研究により、1862年から1866年に金正浩が死ぬまで編纂を継続したという主張が提起された。上の「主上殿下元年甲子」の次の文に「中宮殿下は閔氏であり、本籍は驪州で、府院君閔致禄の娘 (中宮殿下閔氏 籍驪州 府院君致禄女)」という記事があるのだが、彼女の王妃揀択は1866年3月6日に成されたことである。これは『大東地誌』がそれまでは編纂中だったことを意味する。また、『大東地誌』巻5には忠清道の道名が金順性によって公忠道に換られたことが記録されているが、これは1862年であり、この時を上限とみる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大東地誌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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