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大江 元政(おおえ の もとまさ)は鎌倉時代の御家人。南北朝時代の武将。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の5世孫。豊島河原合戦などで活躍した。 == 生涯 == 寒河江大江氏は大江元政の父大江元顕の頃、霜月騒動による執権北条氏の圧力を避けて、寒河江荘に移ったと考えられている。焼失した慈恩寺の再建などに取り組み〔『寒河江市史 上巻』p.376〕、荘内の支配を確立していったとみられる。元亨2年(1322年)元顕が亡くなると元政が跡を継いだ。 正慶2年(1333年)新田義貞により鎌倉が攻撃されると、同族の大江(小沢)貞広・親顕が執権北条高時に殉じて討死した。貞広の弟懐顕や親顕の子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてきている。南北朝時代になると南朝に味方し、建武2年(1335年)大江元政は陸奥守鎮守府将軍北畠顕家とともに上京して足利尊氏軍と戦い京より駆逐した。翌建武3年(1336年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる(豊島河原合戦)。 北畠顕家が延元3年(1338年)に摂津で戦死すると南朝は顕家の弟北畠顕信を近衛中将兼陸奥介鎮守府将軍として下向させ、顕信は陸奥国を転戦する。元政は出羽で南朝側として戦闘に参加したと考えられ、観応2年/正平6年(1351年)の時点で、以前北条氏に没収された北寒河江荘の回復を果たしている〔『大日本史料』第6編17冊4頁、「瑞泉寺文書」〕。文和2年/正平8年(1353年)顕信が陸奥国を追われ出羽国へ根拠地を移すと、北朝側も延文元年/正平11年(1356年)斯波兼頼を山形に下向させる。この年、慈恩寺で本堂・釈迦堂以外を失う火災が発生するが、大規模な修復の記録は残っていない。延文2年/正平12年(1357年)足利義詮より吉良貞経に対して寒河江荘内北方鎌倉円覚寺領の横領について対処するよう命が下る〔『大日本史料』第6編21冊240頁、「武州文書」〕。 延文3年/正平13年(1358年)4月足利尊氏が没すると、南朝側の活動が全国的に活発になる。8月北畠顕信は鳥海山大物忌神社に願文を捧げ〔『大日本史料』第6編21冊989頁、「大物忌小物忌神社縁起并文書」〕、南朝側の諸将を糾合して決起し、寒河江大江氏もこれに応えたとみられる。大江元政は延文4年/正平14年(1359年)斯波兼頼と争い、弟懐広・顕広とともに討ち死にしたという。 跡を長男の大江時茂が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江元政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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