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天京攻防戦は清軍と太平天国軍との戦い。天京とは現在の南京で太平天国の首都。1864年のこの戦いは太平天国が帝国としての形を保った最後の戦いであった。 ==前哨戦== 1863年6月に浙江提督鮑超は九洑洲を取り、太平天国軍は長江北岸の支配権を失った。鮑超は長江を渡河し、天京の神策門の外側に陣を敷いた。9月に曽国藩の弟の曽国荃が攻撃を開始し、市の南東の上方橋と南西の江東橋を奪取した。曽国荃は郊外への攻撃を続け、11月初旬には上方門・高橋門・双橋門・七橋瓮・秣陵・中和橋を確保した。これにより太平天国軍は紫金山の南東の地域をすべて失った。11月中旬には淳化・解渓・龍都・湖熟・三岔鎮が清の支配下に入った。同時に水師提督彭玉麟とその部下の楊岳斌は高淳を占拠して鲍超軍を援護した。11月下旬に溧水の太平天国の守備隊は清軍に降伏した。その結果、太平天国軍は天京の8キロ内の広大な地域から退いた。11月25日は曽国荃とその部下の蕭慶衍は明孝陵に軍を進めた。こうして天京と外部の連絡は神策門と太平門のみとなった。 12月20日に忠王李秀成が丹陽から天京に戻り、天王洪秀全に天京を放棄するように勧めたが、その提案は洪秀全の採用するところとならなかった。洪秀全は彼と神に逆らう者は誰であろうと処刑すると布告した。これによって太平天国軍の中に不満が広がり、20万の兵が天京から逃走するか清軍との戦闘で降伏した。1864年2月28日に紫金山の頂上の天堡城が陥落した。3月2日に曽国荃は神策門と太平門に軍を展開させ、天京の包囲は完成した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天京攻防戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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