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天津 龍太郎(あまつ りゅうたろう、1916年2月10日 - 1962年)は、日本の俳優である〔キネマ旬報社, p.20.〕〔盛内, p.75.〕〔''天津龍太郎''、''jlogos.com'', エア、2013年5月27日閲覧。〕〔''天津竜太郎''、''大津竜太郎''(表題誤記)、日本映画データベース、2013年5月27日閲覧。〕〔''天津龍太郎''、''天津竜太郎''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月27日閲覧。〕〔''天津龍太郎''、日本映画製作者連盟、2013年5月27日閲覧。〕〔''天津龍太郎''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月27日閲覧。〕。新漢字表記天津 竜太郎〔〔〔、本名兼田 隆(かねだ たかし)〔。日本映画データベースにおける「大津竜太郎」〔は誤記〔〔。 == 人物・来歴 == 1916年(大正5年)2月10日、岡山県英田郡吉野村(現在の同県美作市五名あたり)に生まれる〔。 兵庫県神戸市に移り、旧制・神戸市立第三神港商業学校(現在の神戸市立六甲アイランド高等学校)に入学する〔。同校卒業後、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)にあやめ池撮影所を持つ市川右太衛門プロダクションに入社、同社で俳優としてデビュー、脇役・端役等でサイレント映画に出演をしていた〔。1936年(昭和11年)12月に同社は解散し、松竹キネマに吸収されるが、それを目前とした同年9月、兵庫県西宮市甲陽園に甲陽撮影所を稼働させていた甲陽映画(同年5月設立)に移籍する〔〔〔。同年9月23日に公開された『大江戸の魔剣』(監督熊谷草弥)の主演に、満20歳にして抜擢される〔〔〔。同社の作品は、マキノ正博のマキノトーキー製作所が千鳥興業から引き継いで配給を行っていたため、トーキーあるいはサウンド版の映画に多く出演した〔〔。 あやめ池撮影所に右太衛門の実兄・山口天龍が設立した全勝キネマに、翌1937年(昭和12年)1月に移籍している〔〔〔。同社はほとんどの作品がサイレント、あるいは映画説明者(活動写真弁士)の説明が音声トラックに収録された解説版であり、トーキーはほとんど製作されなかった〔〔。『日本映画俳優全集・男優編』には「第一回主演作品」として『夕凪城の怪人』(監督熊谷草弥)の名が挙げられているが、同作は日疋龍太郎の主演作であり、天津は同作に出演した記録がみられない〔〔〔夕凪城の怪人 、日本映画データベース、2013年5月27日閲覧。〕〔夕凪城の怪人 、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月27日閲覧。〕。 1940年(昭和15年)、同社が松竹傘下に入り、1941年(昭和16年)1月、合併により興亜映画と改称すると、京都の旧マキノトーキー製作所の撮影所(現在の松竹京都撮影所)を使用するこの新会社に継続的に入社した〔〔。同年1月22日に公開された解説版『尾州三勇士』(監督熊谷草弥)に主演しているが、同作が全勝キネマの最終作品となった〔〔〔。興亜映画が製作し、同年10月20日に公開された『荒野の叫び』(監督金田繁)を最後に、満25歳にして天津の映画出演記録は途絶える〔〔>〔。 その後は舞台俳優に転向して一座を組み、満28歳となる1944年(昭和19年)、新富座での林長之助一座・富士嶺子一座・天津龍太郎一座大合同と銘打った公演で、同年1月には『血闘盤若坂』、同年2月には『勤王二筋道』、『義剣玉川原』、『まごころ宿場』を週替わりに上演、それぞれに主演した記録がある〔国立, p.120-125.〕。第二次世界大戦後は、二代目大江美智子の一座に参加、大江はま子、吉沢章之、三代目村田正雄らとともに、1957年(昭和32年)8月の芝居に出演した記録が残っている〔大笹, p.474.〕。 1962年(昭和37年)、死去した。満46歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天津龍太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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