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天野 隆重(あまの たかしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏および毛利氏の家臣。 == 生涯 == 安芸天野氏は、藤原南家工藤氏の一族で安芸国に下向し国人化したもので、隆重の系統は天野政貞から始まる金明山天野氏にあたる。同じく安芸の国人である天野興次・天野興定・天野元定の一族の系統は生城山天野氏である。 隆重は安芸の国人で、金明山城主。はじめ大内氏に従属したが、天文20年(1551年)に大内義隆が陶隆房(陶晴賢)の謀反によって殺害される(大寧寺の変)と、毛利元就に従属した。隆重の妻は福原貞俊の妹だったため、毛利元就から厚い信頼を受けた。その後はある程度の独立性を維持しながらも、毛利氏に従い厳島の戦いや防長経略など多くの戦いで活躍した。出雲国の尼子氏が滅亡すると、月山富田城の城代を任される。 永禄12年(1569年)、尼子勝久率いる尼子再興軍が隠岐国より出雲国に上陸し、出雲国奪還へと行動を開始した。これに呼応し尼子氏残党も一斉に蜂起してこれに加わり、6,000を超える人数が尼子再興軍の勢力下に入った。当時、毛利氏はその主力を北九州の大友氏との戦いに向けており、月山富田城を守る兵はわずか300であった。しかし、隆重は城主の毛利元秋と相談して一計を案じ、降伏する旨の書状を送り尼子再興軍を月山富田城に誘引して奇襲をかけ、秋上宗信率いる2,000の兵を散々に打ち破った。 この敗戦の報に激怒した山中幸盛は、自身と立原久綱で2,000の兵を率いて月山富田城に迫った。幸盛は兵に百姓の格好をさせて毛利軍を油断させておびき出し、一気に攻めようとした。しかし隆重はこの計略に乗ることは無くこれを撃退。幸盛は再度、伏兵により殲滅しようと画策し、城下の浄安寺に幸盛率いる1,000の兵が待機し、近くの田畑3ヶ所に伏兵を置いた。隆重はこれを察知して、浄安寺に静かに近づき、鉄砲や矢を寺内に猛射して、またもや打ち破った。これにより、尼子側の戦意は失い、城攻めは膠着状態に陥った。その上、毛利軍本隊が大軍を率いて出雲国に迫っているとの報告が届き、尼子再興軍は四散した。 天正12年(1584年)に死去。墓所は山口県岩国市周東町西午王ノ内の大梅山通化寺にあり、隆重夫婦は息子の元嘉夫婦と共に眠っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「天野隆重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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