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太刀光 電右エ門(たちひかり でんえもん、1897年3月29日 - 1952年5月15日)は、北海道三笠市出身の元大相撲力士。本名は八田 政次(はった まさつぐ(まさじ))。 == 来歴 == 1897年3月29日に北海道空知郡(現:北海道三笠市)で鉱夫の二男として生まれる。1912年の夏に太刀山峯右エ門一行が札幌へ巡業に来た際に兄に付き添われて直接弟子入りを志願したが、小兵だったことで見込みが無いと判断され、諭された上に断られた。それでも政次少年は熱心に入門を志願したため、太刀山自ら「厳しい修行に耐えられるか」と問い、その様子を傍で見ていた代議士も口添えしくれたため、友綱部屋への入門を許可された。四股名は鋭い眼光をしていたことから「太刀光電右エ門」と命名された。 1913年1月場所で初土俵を踏み、短躯肥満ながら非常に柔軟で、相手と離れて組んでも左右どちらかでも投げを繰り出し、足癖も上手かった。気合十分で鋭い立ち合いを武器に順調に番付を上げ、1922年5月場所の千秋楽では太刀山の最後の取組で黒星を付けた大錦卯一郎に勝利し、太刀山と涙を流し合って喜んだ。なお、この場所後に三河島事件が勃発したことで大錦はこの一番が最後の土俵になり、「太刀山の最後の対戦相手となった大錦は、太刀山の弟子である太刀光との対戦が最後となる」という因縁めいた対決となった。当初は鞍ヶ嶽楯右エ門、太刀ノ海浪右エ門の方が出世すると思われていたが、その逆境を無類の稽古熱心で補い、二人が平幕で終わったのに対し、1923年1月場所では7勝1敗1分1休の好成績を残して同年5月場所で大関に昇進した。これによって大相撲史上初となる道産子大関となった。 大関昇進後は優勝こそないものの、出場した場所では全て勝ち越すなど安定した成績が続いていたが、1926年5月場所の出羽ヶ嶽文治郎戦で鯖折りを受けて右脚を負傷、その怪我が原因で満足いく結果が残せず、負傷後の4場所は僅か3日間しか出場できず(2勝1敗)、1927年10月場所の西関脇を最後に現役を引退した。 引退後は年寄・鳴戸を襲名し、新聞で相撲評を書いたほか、「大正時代の大相撲」を著した。1937年には師匠である太刀山峯右エ門の還暦を記念し、上野精養軒で史上初となる還暦土俵入りの太刀持ちを務めた。しかし、相撲協会での冷遇が続いたことで憤慨して廃業して郷土に戻り、小樽で在職中に始めていた飲食店を本格経営した。1952年5月15日に死去、。「太刀光」の四股名は、その後太刀光昭洋・大刀光電右エ門へ受け継がれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「太刀光電右エ門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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