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奥 文鳴(おく ぶんめい、1773年(安永2年) - 1813年11月15日(文化10年10月23日)〔没年月日は昌福寺墓碑銘より。生年は「奥氏過去帳」から逆算。〕)は、日本の江戸時代後期に活動した絵師。京都出身。円山応挙の弟子で、応門十哲の一人。 == 略伝 == 賀川玄悦の弟子で、賀川流産科医・奥道栄の嫡男として生まれる。名は貞章、字は伯熙、通称を順蔵、別号を陸沈斎。次弟は、父の跡を継ぎ産科医として名を成した奥劣斎。早世した兄弟が、他に3人いたようだ。文鳴が医師とならなかったのは幼少より絵が好きだったからとも、父道栄が絵を好んで応挙と交流があったからとも推測される。応挙の手紙は現在20通あまり確認されているが、その内の5点が道栄宛で(他2点も道栄宛の可能性あり)、文鳴の弟子入りも両者の親密な関係によるものと考えられる。 1790年(寛政2年)の内裏造営に伴う障壁画制作に、18歳で参加。与えられた仕事は、後常御殿の杉戸に「戴安道」と「帰去来之辞」、御涼所取合間に「竹」、小壁「雀」という小さな仕事(全て現存せず)だが、年齢を考えれば異例の抜擢といえる。1795年(寛政7年)23歳で大乗寺障壁画制作に参加、「藤花禽鳥図」を描く。これは現在確認できる制作年が判明する最も早い作品で、生涯最大の作品である。若年でこれらの仕事が任されたのは、父道栄の存在が大きかったとも想定される。 版本の挿絵もしばしば描き、1797年(寛政9年)に出版された『東海道名所図会』に1図、1799年(寛政11年)『都林泉名勝図会』では23図、翌年の『源平盛衰記図会』では西村中和と分け合うように30図を担当する。1801年(享和元年)に応挙の伝記である『仙斎円山先生伝』を著し、これは今日最も信用できる応挙伝である。 書画会などの文人同士の集まりに盛んに参加するなか、41歳で没する。菩提寺は上京区智恵光院通下立売上ルの昌福寺。息子の文煥(玄道)は叔父の劣斎に引き取られて医師となり、賀川正系(阿波賀川家)の8代として養子に入った。弟子に、信州出身で『在京記事』(国立国会図書館蔵)を記した平賀鶏岳や、岩崎(渡辺)文陽など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「奥文鳴」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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