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『妹の死』(いもうとのし)は、1920年(大正9年)製作、同年12月5日公開、日活向島撮影所製作、日活配給による日本のサイレント映画である〔妹の死、日本映画データベース、2010年7月12日閲覧。〕。阪田重則の監督作品とされている〔が、実際には衣笠貞之助の脚本家・映画監督としてのデビュー作品である〔『わが映画の青春 日本映画史の一側面』、衣笠貞之助、岩波新書、1977年、p.29-30〕。 == 略歴・概要 == 日活向島撮影所で女形として映画出演をする傍ら、浅草公園六区の帝国館で上映されるブルーバード映画、特にルパート・ジュリアンの監督作に魅せられた俳優・衣笠貞之助〔『わが映画の青春 日本映画史の一側面』、p.26-27〕は、1920年、その影響下に初めて脚本を執筆する〔。当時の同社の専務取締役であった鈴木要三郎にこれを提出したところ、「場面転換がめまぐるしい」ので活動弁士が影台詞をつけにくいとの理由で当座は却下されたが、同年中に鈴木からオファーがあり、映画化が実現した〔。その際、衣笠本人の申し出により、主役のほかに監督も兼務することとなったが、名義上は阪田重則〔(衣笠の回想では若山治〔)の名を借りてのこととなった〔。撮影技師は、のちに監督となる当時カメラマンの大洞元吾が務めた〔。ロケーション撮影は、神奈川県の国府津駅で行なわれた〔。衣笠以外のキャストは不明である〔。本作は、同年12月5日、浅草公園六区のオペラ館で公開された〔。同時上映作品は不明〔1920年 公開作品一覧 265作品 、日本映画データベース、2010年7月12日閲覧。〕。 2年半後の1923年(大正12年)、専業映画監督として務めていたマキノ映画製作所で、『二羽の小鳥』として再映画化している〔。同作は、同年6月1日におなじく浅草公園六区の大東京で公開された〔二羽の小鳥 、日本映画データベース、2010年7月12日閲覧。〕。同時上映は牧野省三監督の時代劇『弥次と北八 第一篇』であった〔1923年 公開作品一覧 396作品 、日本映画データベース、2010年7月12日閲覧。〕。 現在、東京国立近代美術館フィルムセンター、マツダ映画社ともに本作の上映用プリントを所蔵していない〔所蔵映画フィルム検索システム 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年7月12日閲覧。〕〔主な所蔵リスト 劇映画=邦画篇 、マツダ映画社、2010年7月12日閲覧。〕。事実上、鑑賞することの不可能な作品である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「妹の死」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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