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姚 燧(よう すい、1239年 - 1314年)は、中国元初の学者・官僚。字は端甫、号は牧庵。柳城(現在の遼寧省朝陽市)出身。 == 生涯 == 3歳で父を失い蘇門にいた伯父の姚枢に引き取られた。1270年(至元7年)、蒙古貴胄学校に入り、許衡に学んだ。後に秦王府の文學となり至元年間には提刑按察副使、1308年(至大元年)には太子賓客となり、1309年(至大2年)には栄禄大夫を授かり、その後は翰林直学士・大司農丞や『世祖実録』編纂の総裁をつとめた。翰林学士承旨・知制誥・修国史を歴任し、1313年(至大6年)に帰郷し、翌年に没する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「姚燧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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