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孫 楚(そん そ、 生年不詳 - 293年)は、中国・三国時代および西晋の政治家、武将。字は子荊。太原郡中都県の人。祖父は孫資、父は孫宏(南郡太守)。子に孫衆、孫洵(恂とも)、孫纂。孫に孫盛(洵の子)、孫統・孫綽(纂の子)など。曾孫に孫騰・孫登(統の子)『晋書』に伝がある。 ==経歴== 祖父の孫資は魏の重臣である。父の孫宏は同じく魏に仕えて南郡太守になったという。 若くから卓越した才能があったが、自分の能力を誇るところがあり、周囲の評判はよくなかった。ただし、同郷の王済とは親しかった。王済は大中正〔九品官人法に基づき官職を決める役職〕に孫楚の人物評を求められると「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」と推薦している。あるとき、孫楚は自分の妻のために王済が衣服を贈ってくれたことに感動し、王済のために詩を作って返答とした。王済は孫楚の詩を賞賛した。 40歳を過ぎてようやく魏に仕え、揚州の対呉の最前線を守る鎮東将軍の石苞の参軍事となる。あるとき、魏の実権を握る司馬昭は呉へ降伏の使者を遣わしたことがあったが、このとき石苞の命令で呉への降伏勧告状を作成した。 西晋が成立すると引き続き仕え、著作郎になった後、驃騎将軍に出世していた石苞の参軍として再び揚州の対呉の最前線に赴いた。孫楚は自身の才能を鼻にかけ、石苞を見下すような態度をとるようになったので、石苞も反発し、孫楚が呉の人間と同調して晋を批判していると弾劾するなど、両者は数年に亘り対立し、司馬炎(武帝)もその仲裁に気苦労したという。呉の丁奉の策略もあって、石苞は洛陽に召還された。また、同郷の郭奕とも対立していたとされる。 その後、征西将軍になっていた旧知の扶風王司馬駿に招かれ、その参軍となった。その後、梁の令となり、衛将軍の司馬に転任した。 あるとき、龍が武庫の井戸の中に現れたという報告があった。群臣達はそれが瑞祥と信じてそろって敬賀したが、孫楚は井戸の中の龍〔魏の曹髦の在世中にも同様の報告があり、曹髦は君主の徳が不足している象徴と解釈した。〕は、英才が用いられていないという意味だと解釈し、奸臣を遠ざけるよう諫言した。 恵帝の初年に馮翊太守となり、元康3年(293年)に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「孫楚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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