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宇田川 玄真(うだがわ げんしん、明和6年12月28日(1770年1月24日) - 天保5年12月4日(1835年1月2日))は、江戸時代後期の蘭方医。本姓は安岡、名は璘。玄真は字。榛斎と号す。養父は宇田川玄随、養子に宇田川榕菴。 江戸蘭学における大槻玄沢の実質的後継者。門弟に吉田長淑、藤井方亭、坪井信道、佐藤信淵、緒方洪庵、川本幸民、箕作阮甫、飯沼慾斎、青地林宗らがいる。 ==生涯== 玄真は明和6年(1769年)伊勢国安岡家に生まれる。 若くして杉田玄白の私塾・天真楼、その弟子大槻玄沢の私塾・芝蘭堂で学び芝蘭堂四天王筆頭と称された。一時杉田玄白の娘と結婚、養子となったが離縁される(若気の至りか放蕩を重ねた故といわれる)。 寛政9年(1798年)、津山藩医で芝蘭堂の高弟宇田川玄随が亡くなると宇田川家の当主として養子に入りその跡を継いだ。 のちに改暦に悩む幕府からの要請で天文台の蘭書(西洋の学術書)翻訳員として招聘され和蘭書籍和解御用方としてフランスのノエル・ショメールが編纂した百科事典の翻訳に携わった。 また玄真が開いた私塾・風雲堂は医学のみならず、化学、科学、自然哲学など幅広い分野で日本の礎を築いていくことになり蘭学中期の大立者と賞賛された。 天保5年(1835年)12月4日死去。享年67。墓所は泰安寺(岡山県津山市)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇田川玄真」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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