|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle ・ 合 : [ごう] 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) ・ 合戦 : [かっせん] 【名詞】 1. battle 2. engagement ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight
安城合戦(あんじょうかっせん)は、戦国時代に三河国の安祥城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)まで、3回または6回、計9年に渡って行われた戦闘である。 戦いの目的は年が進むにつれてより複雑なものに変化しており、最初の戦闘は織田氏の三河進出が目的であり、最後の戦闘は今川氏の西三河における勢力確立が目的だと思われる。結果、織田氏が敗北したため、織田氏の三河における勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなった。代わりに今川氏は松平宗家領押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。 安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・貴人塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。 == 背景 == 三河を統一し、その名を近隣諸国に轟かせた松平氏7代当主松平清康は、天文4年(1535年)にその勢いに乗って尾張に侵攻して守山城を攻めるも、攻撃の最中に陣中にて家臣に討たれて死去する(森山崩れ)。 あまりに突然の死であったために家中は動揺し、三河の諸豪族は相次いで離反する。一門衆の松平信定(桜井松平家氏当主、広忠の大叔父)が清康の嫡子松平広忠を本城である岡崎城から追放して実権を握り、広忠は吉良持広を頼った。持広は今川義元と広忠の仲をとりなし、翌年には義元の圧力を受けた信定が岡崎城を退去し、広忠は再入城を果たす(なお、信定はその後許される)。このとき合歓木松平家の松平信孝(叔父)は広忠の岡崎帰還を支援したとされ、信孝は広忠の後見役となった。 しかし、清康の死と一門衆の分裂で松平氏は急速に弱体化した。これによって東三河の諸豪族は次々に今川氏への恭順を示し、三河への今川氏の影響力拡大に危機感を覚えた織田氏は西から圧迫を開始した。こうして松平氏は全三河の大名から西三河の小大名に転落したのだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安城合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|