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広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の大部分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。 == 藩史 == 安土桃山時代、中国地方は毛利氏がその大半を治めていた。天正19年(1591年)には広島城が築城されて毛利氏の居城となり、広島は政治・経済の中心地となっていた。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として参戦し敗戦した毛利輝元は、戦後防長2国(長州藩・現在の山口県)に減封された。 代わって安芸・備後2ヶ国の49万8000石の太守として、尾張国清洲より福島正則が入封した。正則は慶長6年(1601年)から検地を実施し、毛利氏時代に不徹底に終わった兵農分離・石高制の移行を行なった。しかし安芸は土豪の勢力が根強かったことから、一部に妥協して郷土制も残している。また、城下町の建設や国内産業の発展なども正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政が確立した。しかし正則は大坂の陣が終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損壊した広島城を無断改修した武家諸法度違反の咎により、大幅減封の上信濃国川中島藩に転封された。実際は豊臣氏恩顧の有力大名であり、大坂の陣によって江戸幕府が豊臣氏を滅亡させたことに異を唱えた事によるものであったと思われる。 代わって紀州藩より、豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。国主。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。 長晟は福島氏時代の政策を踏襲するが、その一方で土豪に対しては厳しい態度で臨み、統治機構の近代化を目指した。 第2代藩主・光晟(長晟の次男)は徳川家康の外孫であったため、幕府の許しを得て光晟の庶兄・浅野長治に5万石を分与した。これが支藩である三次藩の立藩である。光晟は街道整備に尽力し、また松平姓を名乗ることも許された。 第3代藩主・綱晟(光晟の長男)は正室、継室にいずれも九条道房の娘を迎えている。道房の母は豊臣秀勝の娘である豊臣完子であり、以降の浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になる。 第4代藩主・綱長(綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重、小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式や小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は失敗した。しかし、数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・大三郎など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。なお、綱長時代の藩政は商品経済の発達による藩財政の行き詰まりが顕著になったため、家臣団の知行削減や藩札の発行が行なわれている。 こうして江戸時代中期になると、財政は悪化に転じた。第5代藩主・浅野吉長(綱長の長男)は家老から実権を奪い返して親政を試み、有能な人材登用、「郡方新格」による郡村支配の強化を目指して藩政改革を試みたが、郡村支配の強化は反発を招いて享保3年(1718年)3月に大規模な一揆にあい、失敗に終わった。なお、享保5年(1720年)5月に三次藩が断絶したため、享保15年(1730年)3月に吉長は弟の長賢に蔵米3万石を分与して、新田分知(広島新田藩)を立藩し、本家の継嗣が断絶した際に備えた。 第6代藩主・宗恒(吉長の長男)は宝暦の改革と言われる藩政改革に着手して成功を収め、財政が好転する。 第7代藩主・重晟(宗恒の長男)は緊縮財政政策を採用し、徹底した諸制度の簡素化や綱紀の粛正を図り、これも成功したが、天明期に相次ぐ洪水や旱魃、冷害、虫害などによる凶作・飢餓に悩まされ、結局のところ、財政は悪化した。しかも天明6年(1786年)には打ちこわしも起こっている。 第8代藩主・斉賢は、重晟の長男である。 第9代藩主・斉粛(斉賢の長男)は、第11代将軍・徳川家斉の娘・末姫との婚儀、饒津神社の造営、幕府の手伝い普請、凶作が相次ぎ、幕末になると藩財政は窮乏の一途をたどった。このため斉粛は殖産興業の実施・藩内産物の専売制の強化を行なった。しかし藩札の濫発による物価騰貴、専売制の反対一揆などが相次ぎ、さらに藩政改革の手法をめぐって家臣団で対立まで起こり、改革は事実上頓挫した。 第10代藩主・慶熾は、斉粛の長男である。 第11代藩主・長訓(重晟の孫)は先代からの藩政改革を受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹を家老に抜擢し文久の改革を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し、成功をみた。長州征討で広島は最前線基地となり、戦争景気に湧いた。しかし長州征伐そのものには否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で、幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。 慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を推進するなどしている。このため、広島藩は後の明治政府の中枢から排除されることにはなったが、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。 明治2年(1869年)6月、第12代藩主・長勲(重晟の曾孫)は版籍奉還により広島藩知事に任じられる。明治4年(1871年)、廃藩置県により広島県となった。明治17年(1884年)、藩主・浅野家は侯爵となり華族に列し、家老三家は男爵となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち、当時のメディアからは「最後の殿様」ともてはやされたという。 なお、支藩として三次藩、広島新田藩があった。また赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も支藩とみなす説もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広島藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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