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安藤 昇(あんどう のぼる、1926年(大正15年)5月24日 - 2015年(平成27年)12月16日)は、日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府東京市豊多摩郡(のちに淀橋区)東大久保天神下〔『男の覚悟』 安藤昇著 青志社 2009年10月20日刊 26頁。〕(現 東京都新宿区新宿6丁目)出身。 == 来歴 == 15歳で感化院に、18歳で多摩少年院に収監されるなど、荒れた少年時代を送った。予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院、三重海軍航空隊に入隊後海軍飛行予科練習生へ配属。1945年(昭和20年)6月、神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に志願し配属が叶い生死を伴う苛酷な訓練を受けるも、2ヶ月後に終戦となり、除隊。1946年(昭和21年)、法政大学予科〔山口猛『映画俳優安藤昇』p.42〕に入学するが、翌1947年(昭和22年)退学し、仲間達と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作った。 1952年(昭和27年)、サンドイッチマンを手配していた東京宣伝社を発展解消し、渋谷に東興業を設立。当初は不動産や各種興行など真っ当な仕事を扱っていた(銀座に洋品店も開いている)が、やがて賭博の開帳なども仕切り始め、会社は次第に暴力団の様相を呈してくるようになった。これが世に言う「安藤組」の始まりであった。 安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨し、刺青・指詰めを厳禁した等)で、当時の若者の絶大な支持を集めた。最盛期には500人以上の構成員が在籍し、中には大学生や高校生の姿も珍しくなかったという。安藤自身いわく、早大や、慶大の学生も多くいたという。安藤組の幹部には、後年 安藤組の回顧録『修羅場の人間学』(1993年には映画化もされた)を執筆した森田雅や、本田靖春の小説『疵・花形敬とその時代』の主人公として知られる花形敬らがいる。また作家の安部譲二が、中学生の頃から末端組員として安藤組に出入りしていたことが知られている。 1958年(昭和33年)、横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、その話し合いの席上での横井の態度に激怒した安藤は、組員に横井襲撃を命じる(横井英樹襲撃事件)。35日間の逃亡生活の末殺人未遂罪で逮捕され、1961年(昭和36年)前橋刑務所に収監。リーダーを失った安藤組は、警察の頂上作戦で幹部が逮捕されるなどあって規模縮小を余儀なくされ、そして3年後の1964年(昭和39年)、出所した安藤の意思で組は解散となった。一部残党は解散後もしばらく東興業(安藤組)を名乗って活動していた。 1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。この作品がヒットを記録し、松竹と契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を凌ぐ500万円で専属契約を結んだ〔『映画俳優 安藤昇』 山口猛著 ワイズ出版 2002年6月1日刊 92、93頁〕。松竹の子会社であるCAGに所属〔『映画俳優 安藤昇』(94、95頁)では、高額な安藤のギャラが他の松竹俳優のバランスを崩すため、CAGを設立して彼を特別扱いにしたのではとしている。CAGには他に菅原文太が所属していた。〕という形で、11本の映画(但し、2本は確認されていない)に出演。その後、1967年(昭和42年)に東映に移籍した。この移籍は本来なら五社協定違反であったが、映画界の慣習を知らない安藤が松竹に「(五社協定なんて)知らない」と言うと、それで通ってしまった〔『映画俳優 安藤昇』 112〜114頁〕。 長身ではないが、端整な顔立ちに曰くありげな左頬の傷跡、有名暴力団の元組長という類い希な経歴から、数々のヤクザ映画に出演し、人気を博した。松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持つ。自ら主題歌も歌い、レコードも数枚リリースしているが、歌手としての評価は低く、話題にもならなかった。俳優となった後も暴力団関係者との交流は続いており、友人がある一家の跡目を襲名した際には、その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されている(安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたという)。 1979年(昭和54年)、東映映画『総長の首』出演を最後に俳優を休業。これ以降はごく希にVシネマに客演する程度で、Vシネマのプロデュースや文筆活動に勤しんでいた。 2015年(平成27年)12月16日、肺炎で死去。89歳没〔〔。 2016年(平成28年)2月28日、発起人である佐藤純彌、降旗康男、中島貞夫、梅宮辰夫、村上弘明、吉田達、三田佳子、岩城滉一、堀田眞三、梶間俊一により「安藤昇 お別れの会」が東京・青山葬儀所で行われ、映画関係者やファンら含め約700人が参列し、「新宿無常」「旅傘道中」「惜別の唄」など安藤昇の歌をBGMに進行された〔。黙祷が捧げられた後、実行委員長の海老澤信が挨拶し、中島貞夫と堀田眞三が弔辞を述べ、梅宮辰夫が献酒を務めた。梅宮辰夫は取材を受けるとみられていたが焼香後に体調により会場を後にした〔。北島三郎、村上弘明、岩城滉一は囲み取材を受け安藤昇との思い出をコメントした〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安藤昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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