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安食の戦い(あじきのたたかい)は、天文23年7月18日(1554年8月10日)に尾張国安食で行われた戦いである。中市場合戦とも言う。 == 戦いの経緯 == 尾張下四郡の守護代、清洲織田家(織田大和守家)の重臣清洲三奉行の一人織田信秀は、主家と張り合うほどに勢力を伸ばしていたが、信秀が死去して子の信長が跡を継ぐと、守護代織田信友の下で実権を握っていた又代の坂井大膳が、同輩の坂井甚介・河尻与一(左馬丞)・織田三位らと謀って信長に敵対を始めた。しかし、天文21年8月16日(1552年9月4日)の萱津の戦いでは敗北し、坂井甚介が討ち死にした。 守護代信友の居城清洲城では、尾張守護の斯波義統が、信友や坂井大膳らの傀儡となっていた。しかし、義統の近臣の梁田弥次右衛門と那古野弥五郎が信長に内通。これを受け信長は兵を清洲に差し向けて、町を焼き払い裸城にしてしまった。信長自らも出馬したが、このときは城の守りが固く引き上げた〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「梁田弥次右衛門御忠節の事」〕。 天文23年7月12日(1554年8月4日)、義統の子義銀が近臣を引き連れて川狩りに出かけた隙を突き、坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位は義統を襲撃して一門数十人もろとも死に追いやった。義銀は那古野城へ逃げて信長に保護された〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「武衛様御生害の事」〕。 7月18日、柴田勝家〔この頃は信長の弟で末森城主の信行(信勝)の重臣だった。〕が清洲へ向け出陣し、三王口で開戦〔このときの足軽の中に太田又助(『信長公記』の著者太田牛一)の名がある。〕。後退した清洲勢は乞食村(春日井郡安食村)〔現名古屋市北区付近〕で支えることができず、誓願寺〔現名古屋市北区成願寺〕前で応戦したが、ついに町口大堀の中まで追い入れられてしまった。河尻左馬丞や織田三位らが奮戦したが、柴田勢の槍は長く〔信長は三間柄や三間半柄の槍を作らせ、斎藤道三との対面の際にも兵に持たせている。〕清洲勢のは短かったため、左馬丞・三位以下三十騎が討ち死にした。織田三位の首を取ったのは、義統の直臣だった由宇喜一だったという〔太田牛一 『信長公記』 巻首 「柴田権六、中市場合戦の事」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「安食の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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